2013年7月に院生2人が石井美保先生の研究室にお邪魔して、人類学との出会いやこれまでの研究経緯について伺ってきました。第1回目は「野外調査と研究への憧れ」というタイトルでお届けします。田中雅一先生のインタビュー最終回でジンカンの文化人類学分野の設立経緯についてのお話がありましたが、石井先生の今回のインタビューでは、その分野に院生として身をおいたときのことが語られていて、ちがう視点から分野が確立されていく経緯をよみとることができます。
*このインタビュー記事は、書きおこし原稿(約3万文字!)をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。


シュラフで寝られるようにならなきゃ

院生
よろしくお願いします。

石井
まだ経歴が浅いので、そんなに菅原先生や田中先生みたいにしゃべることないんですけど(笑)。よろしくお願いします。

院生
経歴に沿いながら様々なトピックに触れていければと思います。

石井
 どこまでさかのぼりましょうかね(笑)。風間先生のインタビューでは幼稚園までさかのぼっておられましたが。とりあえず、大学に入った頃くらいまでさかのぼってみましょうか。学部は北海道大学でした。高校のときからなんとなくフィールドワークをしてみたいと思っていて、文Ⅱ系というところに入ったんですね。高校のときから野外で調査をしたり、研究したりすることに憧れていました。高校時代に友だちと北海道を旅行して、土地として素晴らしいと思ったというのもあったし、なんとなく関西を出たいというのがありましたね。
 文Ⅱ系から行動科学科に行けばフィールドワークができるという情報を得ていました。学部1年生では一般教養。学部2年生の秋頃だったでしょうか、移行というのがあって専門課程に分かれるのですが、私の第一希望は行動科学科でした。その中には社会心理学・文化人類学・動物行動学という三つの分野があったんですね。まぁ当時、一番人気だったのは社会心理学でした。これは心理学的な実験をして、実験室の状況を重視する分野ですね。今では有名になっている「囚人のジレンマ」(注1)という考えを日本に紹介した先生がいらっしゃったんですね。動物行動学はオオカミの研究をしている先生がいらっしゃって。
 文化人類学には足立明先生(注2)がいらっしゃいました。山田孝子先生(注3)も当時、非常勤をされていて、山田先生の旦那様(注4)も北大で人類学を教えてらしたんですけど。1年生のときは山田先生の一般教養の講義とゼミを履修していたのですが、山田先生はメアリ・ダグラスの『汚穢と禁忌』(注5)を使いながら授業をされていました。1年生の学生は授業中爆睡している人も多かったのですけど、私にとってはとても面白かったですね。一所懸命ノートをとって、試験前に友だちにそのノートを貸したり(笑)。演習ではルイスの『エクスタシーの人類学』(注6)をテキストに使われていて、今思えばそこで宗教人類学を教えてもらってたんだと思いだしました。山田先生の旦那様がどんなことをされていたかはあまり覚えてないんですけど。文化人類学の講座、歴史文化論講座という名前でしたが、そこを担っていたのは足立明先生でした。足立先生のことは知ってます?

院生
名前程度ですが知っています。

石井
足立先生は北大の後、京大のASAFAS(アジア・アフリカ地域研究研究科)にいらっしゃったのですが、去年(2012年)亡くなられました。スリランカ研究者ですが、私が大学にいた頃は開発批判の人類学をテーマに講義をされていました。スリランカのフィールドでの経験を基盤にして、現地の状況に照らし合わせたとき、開発というものが人類学的にみていかに問題があるか、といったテーマでした。この段階でも、当時の私としては足立先生の研究内容に関心があったというよりも、フィールドワークをしたいというか、遠くに行きたいという気持ちが強くあったんだと思います。

院生
具体的に研究したいことがあるということよりも、とにかくどこかに行きたいという感じだったのでしょうか。

石井
北海道っていうのも遠くなんですけどね(笑)。専門課程に移る前にも海外にはちょくちょく行っていました。山登りのサークルの先輩とネパールに行ったり、フィジーやサモアに一人で行ったりしていました。大学1、2年の頃ですね。こういう経験をしながら人類学にしようかな、という気持ちを強めていきました。山登りのサークルに入ったのは、将来、フィールドワークをするためには野外で、テントで寝るのに慣れなきゃ、シュラフで寝られるようにならなきゃという真面目な理由からです(笑)。




院生
2回生で人類学の方に進まれて、卒業研究はどのようなものだったのでしょうか。

石井
 当時の歴史文化論講座には、院生はほとんどいませんでした。修士課程の院生が二人ほどいただけだったかな。考古学の院生が人類学のゼミに出ていたりしていました。ゼミ自体はとても面白かったですね。足立先生に加えて、私がたしか4年生のときにフィリピン研究者の梶原景昭先生(注7)と、井上昭洋さん(注8)というハワイの研究をされている方が助手として来られて。梶原先生が教授、足立先生が助教授、そして助手の井上先生という体制でした。あとはほとんど学部生しかいなかったですね。
 ただ、講座には面白い人がたくさんいました。卒論のテーマも面白いものが多かったですよ。私の同級生だと、例えば納棺師…映画「おくりびと」で有名になったのですが、それを先取りして調査した人もいました。あとは、老人のセクシュアリティとか。みんな学部生にも関わらず、しっかりフィールドワークをして卒論を書いていました。
 その中で私は精神分裂病、今でいう統合失調症をテーマに選びました。札幌にある病院の精神科をいくつかまわって、お医者さんに話をきいたり、入院されている患者さんに会いにいったりとか。作業療法をしているところでは、寛解というのですが、すこし良くなった人たちが簡単な作業を共にしている共同作業所があって、一緒に作業しながら話を聞きました。それで、そうした内容を卒論にまとめました。なんていうタイトルだったかなぁ。「精神分裂病と現実構成」だったと思います。

院生
理論的なものはどのように使われてたんですか?

石井
当時はやっぱり、英語の文献はあまり読まなかったですね。足立先生と梶原先生のゼミではサイードの『オリエンタリズム』を最初に読んで、その後Culture and Imperialism(注9)を、当時はまだ翻訳が出ていなかったので、学部生ながら原典で読むというすこし無謀なことをしていました。ギンズブルグの『チーズとうじ虫』(注10)など、わりと本格的なものを学部生にどんどん読ませて発表させるということをやっていて。そういう訓練は受けていたんですけど、その一方で、当時、たぶん94年から96年くらいだったと思いますけど、ちょうどいわゆるWriting Culture Shock(注11)が翻訳を通して日本にやってきているところで、民族誌的な記述の政治性とか、フィールドワークに対する懐疑とかが日本の文化人類学界でも話題になっていたときだったんですね。人類学を学び始めたときに、一方で過去を否定しろ、みたいな動きがあって、他方でフィールドワークが重視される、みたいな、ダブルバインド的な状況ではありました。

院生
そのような勉強をしながら大学院進学をされたんですか。

石井
卒論の話はまたあとで戻りますね。大学院を受けるときには、足立先生に古典を10冊くらい紹介していただいてかなり勉強しましたね。例えばリーチだったり、メアリ・ダグラスだったりとか。大学院もそのまま北大にしようか、いっそ琉球大とかに行ってしまおうかなどと考えていたんですけど、当時の北大の歴史文化論講座は、院としてはあまり展望がなかったというか、人も少なかったですし。それで、足立先生から京都大学を受験することを勧めていただきました。足立先生は田中雅一先生と親しかったので、「お前はこの人についていけ!」と投げられたような形で(笑)。4年生の夏に京都にご挨拶に来たんですけど、夏はほとんど受験勉強ばかりでした。そこで初めて本格的に古典を読んだんですね。当時、京大の院は今より人類学の倍率が高かったようです。人類学の理論的な筆記試験対策と…ドイツ語だったかな。卒論の調査を始めたのは実質、試験が無事に終わった秋以降ですね。




アフリカへ行ってみようかな

院生

大学院以降の研究についても教えてください。

石井
卒業論文のときから一貫している問題意識がありました。そうですねぇ…自己が変容していく状態とか、ある種の「現実」がどういう風に成立するのかといった問題にずっと興味があるのだと思います。ひとつには現象学的な関心と、そして人類学的な、社会・文化による現実構成みたいなものに興味があるというのと。ある種、構築された「現実」からずれてしまったような状況にも魅かれます。

院生
卒業論文のテーマはまさにそのようなものですね。

石井
そうですね。卒論の調査で、つたないやり方でですけど、お話を伺った患者の方々は、ある意味で「ずれてしまった」状態にあったともいえます。ある程度よくなっていた方も多かったんですけど。病気といわれていても、他人から病気と思われるような経験も、ある意味で個々人にとってはすごく大事な経験だったり、救いになっているということがある、っていうことが確信できたのかな。システムとして構築された「現実」というものに対して、パーソナルなリアリティとかアクチュアリティみたいなものの持っている力というものを、卒論のときの調査ではかなり大事だなと思いましたね。

院生
修士課程では田中先生と相談されながらタンザニアというフィールドに決められたのでしょうか?

石井
 いえ、相談はしてなかったですね(笑)。最初は漠然と、卒論の延長としていわゆる精神疾患について人類学的に調査をしようかなと思っていたんですけど。当時は福井先生(注12)と、菅原先生と、田中先生がいらっしゃいました。私は田中先生の研究室だったんですけど、もちろん他の先生方のゼミにも出ていて。学部生まではネパール、東南アジアとかポリネシアには行ったことがあったのですが、それまでアフリカには行ったことがなかったので行ってみようかなと思ったんです。ちょっと怖いんだけどやってみよう、みたいな。それで修士課程に入ってまもない時期に、タンザニアに行きました。3、4か月くらい行っていたかな。タンザニアはアフリカの中ではわりと入りやすいところで、日本人で入っているひとも多かったです。京大のアフリカセンターからも学生が何人か行っていて、話を聞きにいって「タンザニアの人は親切だよ」なんていう言葉に後押しをされていました。
 タンザニアでは、最初は現地の精神病院をまわったりしていたのですが、たまたま泊まっていた場所の近くに路上で商売をしている人たちがたくさんいて。若い人も多くて、絵葉書とかお菓子とか、日本円にしたら1円とか2円、10円くらいかな? こまごまとした安いものを売っていて。不思議だったんですよ。こういうものを売って生きていけるんだ、って。声をかけてくる人も多くて、「俺はラスタだ」(注13)と自称する人もいたんですね。当時の私にとってはラスタっていうとレゲエくらいのイメージしかなかったんですけど、レゲエといえばジャマイカですよね。なんでラスタがアフリカにいるんだろう、と思っていました。そのうち、この人たちのことを調べたら面白いかなという気持ちになってきました。




院生
日本に帰ってきたのはいつごろですか?

石井
M1になってすぐにタンザニアに行ったのでM1の夏ごろですね。帰国後のゼミで精神病院関係のことと、ラスタの話を両方発表して「どっちがいいでしょうか」という形できいてみると、ラスタのことの方が面白いじゃないか、と言われたんですね。
 ひとつに菅原先生からは、精神的な疾患を調べていくことはあまりにもこう、重いことだというご意見がありました。あと、私の卒論のときの立場は、精神の病を疾患と断定するだけじゃなくてその可能性というものを見ていこうというようなものだったんですけど、そう簡単にはいえないんだ、と。病気の人にとっては、病気は薬を使って和らげたい時もあるのだという言葉をもらったんです。ラスタは今しかできないテーマだと考えて修士ではその研究をしました。

院生
そこから修士課程の研究が本格的に始まるのですね。

石井
 修士過程は、今思えば波乱万丈でした。タンザニアの首都のダルエスサラームというところにいたんですけど、ラスタの人たちは生活が本当に大変で、多くの人は田舎、彼ら自身はブッシュとよんでいるのですが、そこから出稼ぎに来てるんです。
 12歳くらいの頃から都会に出て、出稼ぎ生活を送る中でジャマイカのラスタたちの思想に共鳴していくんですね。要するにゲットアップ!スタンドアップ!の世界です。ボブ・マーリーみたいな(笑)。政府の機関が彼らの出店を壊しに来ることもよくありましたし、生活苦の中で自殺しようとする人もいました。
 その中で私の生活も変わっていったんです。これからフィールドワークをする人にはそういうことがよくあると思うんですけど、だんだんと調査にならなくなってくるんですね。
 日常的にラスタの人と一緒にいて、ものを売って、同じように生活に困るようになってくるんですよ。そうなってしまうと、彼らを改めて調査するということは難しくなってくるというか。ダルエスサラームにはずっといたんですけど、さほど集中的な調査というものはしていませんでした。修士論文を書く段になって、自分が持っていた少ないデータを使いながらなんとか書き上げたという感じですかね。
 現地にいたときには、ただ一緒に生活していたという感じでしたね。インタビューとかはしていたんですけど、イギリスやアメリカからアフリカに「帰還」してきたラスタ(注14)はタンザニア出身のラスタと比べてリッチだし、主張がぶわーっと出てくることが多かったです。逆に、一緒にいる時間が長かった底辺の生活をしているタンザニア人のラスタの人たちは、身近になりすぎて相対化することができなかったですね。そういうことはフィールドワークをしていると結構あると思いますね。

院生
修士論文を書き上げて博士に進まれたわけですが、進学・研究者はもともと志望されていたのでしょうか?

石井
 修士論文はなんとか通りました。意外にもほめてもらえたりもしました。タンザニアにいたときに、アカデミアというものとの距離感が生まれてしまって。研究を続けていってもいいのかなぁ、という気持ちにもなっていました。働いたほうがいいのかなぁと思ったりすることもあるでしょ?(笑)アカデミックなところで今後もやっていくのかどうかについて、修士論文を書くあたりで悩む人は少なくないと思います。
 そんなとき、いつだったか田中先生と駅のホームで電車を待っていたときに、ふと田中先生に、「博士に進むのをやめようかと思うんです」と言ったら、「考え直したらぁー?」っておっしゃるんです。本人は絶対覚えていないと思いますが(笑)。「ちょっと考えてみたらぁー」と言われてそのとおり考えていたら、うかうか博士に進んでしまいました。
 私の決意がたりなかったのかもしれませんが…(笑)。まぁその段階ではほかに何も選択肢がなかったんですよね(笑)。(2回目につづく)



注1:ゲーム理論や経済学における重要概念のひとつ。ジレンマ自身は数学的に定式化される。「囚人のジレンマ」とは次のようなことをさす。互いに協調するほうがよい結果になるとわかっていても、自身の利益を追求して互いに裏切り合ってしまうこと。『囚人のジレンマ』(青土社、1995)
注2:足立明(1952-2012)。スリランカを中心に南アジアの農村をフィールドにして研究をすすめてきた。主な共著書に『文化と現代世界』(嵯峨野書院、1991年)、主な論文:足立明 2001「開発の人類学―アクター・ネットワーク論の可能性」『社会人類学年報』27: 1-33頁.などがある。
注3:京都大学名誉教授。主な著書に『ラダック』(2009、京都大学学術出版会)がある。
注4:煎本孝。北海道大学名誉教授。主な著書に『文化の自然誌』(東京大学出版会、1996年)がある。
注5:『汚れと禁忌』(筑摩書房、2009年)
注6:『エクスタシーの人類学』(I.M.ルイス、法政大学出版局、1985年)
注7:国士舘大学教授。主な共著書に『岩波講座 文化人類学第2巻 環境の人類誌』(岩波書店、1997年)がある。そのほか翻訳書多数。
注8:天理大学准教授。ポリネシアをフィールドに調査研究をおこなう。
注9:Edward W.Said 1994 Culture and Imperialism Vintage.
注10:『チーズとうじ虫』(カルロ・キングスブルグ著、みすず書房、2012年)
注11:James Clifford 1986 Writing culture University of California Press.(『文化を書く』(紀伊國屋書店、1996年))民族誌記述に付随する政治性と主観性の問題を鋭く指摘したこの本をきっかけとして、人類学的営為のもつ権力性についての広範な議論が巻き起こった。
注12:福井勝義(1943-2008)。主な著書に『焼き畑のむら』(朝日新聞社、1974年)『認識と文化』(東京大学出版会、1991年)などがある。
注13:ラスタファリ運動を担う人々のこと。ラスタファリアンともよばれる。ラスタファリ運動は、奴隷交易によってアメリカやカリブ海地域に離散した黒人(ディアスポラ黒人)の子孫によって形成された社会宗教運動である。詳しくは以下を参照。石井美保 1998「越境するラスタファリ運動―タンザニア都市における社会宗教運動の展開」『民族学研究』第63巻第3号 pp. 259-282.
注14:ディアスポラ黒人であるラスタの中には、彼らが「始祖の地」とみなすアフリカに移住(彼らの言葉では「帰還」)する人々が少なからず存在する。タンザニアにも、そのような帰還ラスタたちの形成する「ラスタ・キャンプ」が複数ある。