2011年文化人類学分野ホームページ・リニューアルを記念して、院生が菅原先生にインタビューする企画が実現しました。ふたりの院生が、菅原先生の研究室にお邪魔してのぞんだインタビューは3時間以上にもわたりました。先生の濃密な語りを前に、ふたりは相づちをうつだけで精一杯だったそうです。そのインタビューの全容を、これから4回にわたってみなさんにお届けします。第1回目は、「霊長類学との出会い」というタイトルでお届けします。
*このインタビュー記事は、書きおこし原稿(37,876文字)をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。
院生:
まず、最初の質問ですが、文化人類学を始めたきっかけとしまして、もともと菅原先生は霊長類学をなさっていたということなのですが、なぜ霊長類学から文化人類学に転向したのかということをお聞きしたいと思います。
>動物へのあこがれ
菅原:
もう本とかに私小説的なこと書いてあるんで、あんまり気合が入らないんだけれども(笑)、そもそも私は動物少年だったんだよね。だから、とにかく動物学というものにやたら憧れを感じていたと。それをさらにさかのぼると、東京生まれなんだよね。都会のど真ん中だから、それで一層、いわゆる自然に対する憧れって強かったんじゃないかな。でねー、なるべく今まで話さなかったことを話したいと思うんだけど、モノの形に、なんかすごい惹きつけられる感じってのが出発点だと思うんだけど。たとえば、今では動物フィギュアなんてそこいらじゅうに満ち溢れているけれども、私たちの時代にはそんなもの本当に少ししかなくて。だから、子供心の一番の楽しみは、お祭りに行くとお小遣いを握りしめてだな、何を買うかというと今でいう動物フィギュアだな。その頃は圧倒的に多かったのは陶器でできてて、そういうものを買ってためつすがめつするのがむっちゃ好きで。
そうこうしているうちに、確かあれは小学校5年か6年か、おふくろが結構しょっちゅうとってた『暮らしの手帳』っていう素敵な雑誌があるんだけどね。その『暮らしの手帳』にね、不思議な連載が始まって、それがまぁ私の人生を方向づけたと思うんだけど。イギリスの動物学者でジェラルド・ダレルという人がね、「積み過ぎた箱舟」(注1)というノンフィクションを、多分1年近く長期連載していたと思う。イギリスの王立動物学会というところから依頼を受けて、英領カメルーンの密林地帯に珍しい動物を採集しに行く、しかもその動物を現地で捕らえて、餌を与えてずっと生かしてね、それで沢山の動物を船に乗せてね、ロンドンまで持ち帰るという内容だった。で、ものすごく精密な動物の挿絵が載ってたの。私はそれにうっとりしてね。熱中して。心に誓ったことが、「僕は動物学者に絶対になって、アフリカに行くんだ」と、小学校5、6年生の時に心に誓ったと。そういうかなり変わった少年の夢みたいなものを、すごく強烈に抱いたというのがそもそもの出発点で。動物学者になりさえすればそれでよかったというのが、一番最初の原点かな。だから、小学校卒業する時の卒業文集ってあるよね。そこにもうすでに「もし同窓会があったら、アフリカで捕まえたオオトカゲを一緒に連れてくる」ということを宣言していたんだけど。
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霊長類学との出会い
で、そのままとんとん拍子に行けばよかったのですが。うちは渋谷区だからさ、東京大学教養部、いわゆる駒場キャンパスが結構近かったんだよね。だから当然、東大の理Ⅱに入って動物学を専攻すると思いつめていたんだけど、あえなく東大の入試に落ちて、一年間の浪人生活を送って。でも、その時に決定的なことがやっぱりあって。駿台予備校で中学3年の時のとても仲が良かった友人が一緒で、その時彼が、すーごくこの本面白いって言って、河合雅雄著『ニホンザルの生態』(注2)っていう本を貸してくれたわけ。で、私は本当にこんな面白い話が世の中にあるのかと思うくらい熱中したのな。だからまさか、その河合雅雄先生が大学院の指導教授になるとは、神ならぬ身の知るはずのないことだったんだけど(笑)。特に私が熱中して、なんて不思議なんだろう!て思ったのは、ニホンザルのオスどうしがオス・メスの交尾姿勢と同じ姿勢を取ると、これをマウンティングというんだけど、上に乗るほうのオスが優位で、乗られるほうのオスは劣位で、つまり、マウンティングされちゃうほうのオスっていうのは、「私はメスのごとく弱いんです」ということを優位なオスに象徴的にね、表現しているんだという話に私は、なんかうっとりしたんだよね(笑)。「えー、動物が象徴的なことをするってすごいじゃない」とか思って、そのときかなり強烈にね「そうか、京都大学理学部というところに行けば、サルの研究が出来るんだ!」と思って。動物学という漠然とした話よりも、そりゃサルの研究が一番面白いんじゃないかと強く思ったのね。
そしたらなんと、予備校に通ってた1968年なんだけど、その年の5月にパリ五月革命というのがあって、同じ頃にプラハの春という、ドブチェク第一書記っていうリベラルな人がチェコスロヴァキアで権力を取って、一気に自由化を推し進めようとしたら、そこにワルシャワ条約機構の名を借りて、ソ連軍の戦車がどうぁーって攻めてきて。これはもう歴史の本当に一番恐ろしい展開の一つだったんだけど、ドブチェクはモスクワまで連れていかれたんだよね。で、そこでどんな恐ろしい脅かしにあったか知らんけど、「私のやろうとした自由化政策は間違っていました」ということを、テレビカメラの前で言わされてね。それを見た人たちは、「あー、ドブチェクは怯えている、殺されると思って怯えている」ていうのが、もう表情から見てわかったって。そういう形で西も東も動乱の季節が始まって、パリ五月革命とほぼ同時期に、東大の医学部闘争というのが始まって、あっという間に東大全体に拡大して、東大闘争というのになって。そして、いわゆる安田砦攻防戦というのが1969年の1月にあって、東京大学の本郷キャンパスのいろんなところで全共闘学生が砦を作ってたんだけど、それがすべて機動隊によって封鎖解除された。そして、時の文部大臣が封鎖が解除されたほとんど廃墟みたいになった東大の構内を視察して、「こんなところで入学試験はできない」と言って、あっさりと東大入試が中止になった。だから、自分の人生観が大きく変わったのは、その時だったような気もするんだけど。それまでの私にとって、ずーっと自分の頭を押さえつけていたのは、東大に入らなくちゃっていう感覚だったんだけど、とても驚いたことに人間の力で絶対的だと思えたものが変わるんだっていう感じかな。絶対的に聳えたっていたものがぶっ壊されることがあるんだっていう、それはとても大きな自分にとっての教育だったように思う。それで、東大の入試が中止になったら、当然京都大学に受験生が殺到するのはわかってたんだけど、思いきって京大理学部を受けて、運よく合格して。いわゆる京大のやっている霊長類学というものに、少し近づいた。
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大学闘争のなかで
ただね、その時には、むしろ私は自分の一番やりたいことは動物生態学じゃないかなぁと思っていた節もあってね。ずっと大学に入ってからも動物生態学をやるのか、霊長類学をやるのか、そうはっきりと決断できたわけではなくて、それがだんだん、霊長類学のほうに気分が傾斜していった。それはやっぱり、私たちが入学したのは、もうすでに全共闘運動が下火になりつつある頃で、大江健三郎に『遅れてきた青年』(注3)ていうタイトルの小説があるんだけど、まぁ自分たちのことをね、「俺らはどうせ遅れてきた青年だし」みたいな、自嘲していたということころがあって。結局のところ、入学してから、9月20日過ぎまでずっとバリケードストライキだったから、その間じゅう、親しくなった友人たちと延々と、「一体この闘争にどういう関わりかたをすべきか」というようなことを、まさに地を這うような議論をしてさ。そのうちになんか、動物学っていうのは、あまりにも現実逃避的だよな、という感じがやっぱり強くなってきた。その頃の私たちは、「人間についてわかるような動物学をしなければならない」というのが合言葉だったんだな。そのためには、動物生態学よりも、人間に一番近いサルの研究をするほうが近道なのではないだろうか、というような形で徐々に霊長類学のほうへ傾斜していった。
それとその頃もう一つ言っていたことはね、「これは消去法だ」と。ミステリーでいう、シャーロック・ホームズとかによく出てくる消去法だということも同時に自覚していた。それは私のように動物生態学とか思いこんでいた人間よりも、理学部に入って数学やるんだとか、物理学やるんだ、生化学やるんだと言っていた連中のほうが、その消去法というのを非常に切実に感じていた。それはつまり、闘争の教育的効果。これはこういうことを言って差し障りがないのかどうかよくわかんないけど、やっぱり学者って矮小だよなっていう感覚?それは、大衆団交とかでさ、学生がガーガーと非難すると、実に愚かしいことしか言えないような、子供っぽい学者を見ていると、単に僕は数学者になればいいんだ、とか、物理学をやるんだ、生化学をやるんだ、ということを、やっぱ遮断しなきゃいけないような感覚というのをあのころの多くの若者は持ってしまった。その感覚を何と言えばいいんだろう。すごい当時の流行言葉的に言えばさ、「そんなのはプチブル的だ」っていう(笑)、まぁ流行言葉に過ぎなかったんだけど。でも、これもプチブル的、あれもプチブル的って、自分がやろうと、あるいは自分が好きだと思っていたことにヤスリをかける感覚っていうのはその時代でなかったらありえなかったと思うんだけど。
でもその頃の私たちは、本当にグレていたから。というか、いくつもの流れはあるんだけど、一つにはキャンパスが本当に荒廃してたから、もうそこらじゅうで小競り合いがあり、白兵戦があり。そして授業に出れば、すぐに論争になりって感じで、本当に殺伐とした時代だったね。でね、9月20日ころだったと思うんだけど、安田砦のまねであの本部時計台が砦化されていて、そんで機動隊が導入されて、封鎖が解除されて、同時に教養部のバリケードも全面解除されて、10月1日から授業がやっと始まったんだよね。だけど、そのキャンパスには機動隊が常駐してたわけだ。で、機動隊がキャッチボールとかやっている横を私たちはこそこそ歩いて授業に行くという、そういうのがやっぱりとても屈辱的だったんだよね。なので、理学部の先進的な学友諸君は、授業が始まってから一週間、片っぱしから授業をつぶして歩いていたんだよ。これは実に簡単なことで、例えば、物理学の先生が物理の授業をしようとすると、「先生、あなたは機動隊に守られて授業をするってことをどう思っているんですか」とか難癖をつけると、大体普通の教師は黙りこくってしまったり、へどもどしたり、あるいはすごくバカなことを言ったりね。「君たちはそう言うけれど、じゃあソ連や中共でやってる科学だったらいいんですか」とか。で、こっちはいきりたって、「そんなことが問題なのではなぁーい!」と、「国家権力のもとで科学をやるっていうこと自体が問題なんだよ!」となんとか言うと、うなだれたり。
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や、でも、それはやるほうもすごいストレスなんだけどね、勇気をふるってそういうことをこまめにやっていたら、ちょうど授業が始まって1週間くらい経って、決定的な日がおとずれた。それは、Nっていう理学部から非常勤で出向してきた助教授がいてね、教室に入ってきて一座を見渡してだな、にやにやしながら「さぁ授業を始めていいですか?」って言ったんだね。その時に悪いことにねぇ、私のクラスの一番先鋭的な全共闘系のシンパだったKTクンっていう学生がたまたま休んでいたのね。まわり見渡しても口火を切りそうなやつがいないんで、あぁやだなぁと思いながら、「こうやって機動隊に守られて授業することをどう思ってるんですか?」て私が聞かざるをえなかったのね。そしたら「オーそう来ると思った」って言って。そんで逆にだな、Nに「君は一体何のために大学に入ってきたの?何をしようと思って入ってきたの?」って聞かれた。私は「自分にはやりたい学問があるから、それをするためには、知識を身につけるということが、やはりあると思います」と答えたら、「君の何らかの学問をしたいというのは、まぁ良いけど、だったらどうして授業をつぶすなんてことをしているの?」って言われて、私は、「いや、先生は不安じゃないんですか?」って聞いたんだよね。それはつまり、延々とベトナム戦争をやってるし、日本は日米安保条約に支配されてまたいつ戦争が起こるかわかんない。私はこの次に起こる戦争に徴兵されて戦場で死んだりするのは絶対嫌だから、それを避けるためにはやっぱり闘わなければいけないと思っているという、結構まともな答えかたをしたよね。そしたら彼は「それも僕にはとてもよくわかる。でも、君たちが闘いをすると言ったときにどんな闘いをするにしても、唯一の武器は物事を論理的に考えることである。正しく論理を使うということが唯一の武器であって、私たちにそれ以外の武器はない」と。「まぁだから、君たちの言うゲバルトとかいうのはまったくお話にもならない。子供の戦争ごっこみたいなもんで、唯一の武器は論理だ。で、私はこの授業で君たちに正しい論理の使いかたを教えるつもりだ。文句ありますか?」と言われて。私はそこでねぇ、ぐうの音も出なくなったね。それで他の学友がなんか言ってくれるかと思いきや、みんなシィーンとしちゃって。そこで私たちはNとの論戦に完全に敗れてだな。それに、それほど教条主義的に「革命だ!マルクスだ!」という学生でもなかったので、「よし、この授業粉砕闘争を俺はやめる」と言い、その時にNに全然太刀打ちできなかった他のクラスメイト達も授業粉砕闘争はやめようと。で翌日、KTクンが出てきて、俺らが「もう授業受けるぞ」と言ったら、とてもびっくりして、「エー何が起こったの?そのNっちゅう奴に何を言われて君たちはそんなにめげちゃったの?」とKTクンはいつまでたっても納得しなかった。
でも結局そうやって、いわゆる秩序への復帰というのを着々と果たしていって。そして物理学志望の学生たちはだな、物理学の教科書としてとても有名だった『ファインマン物理学』の読書会とか始めちゃって。私とか友人とかは秩序への復帰を横目で苦々しく見ながら、自分たちは一体何をするんだろうっていうのがずっとわからなくって。
(第2回へ続く)
注1: 原著タイトルはTHE OVERLOADED ARK 1953初版(翻訳書は、福音館書店が2006年に再版)
注2:1969年に河出書房新社から初版がでています。1981年に再版。河合雅雄著作集第2巻(小学館1997)にも収録されています。
注3:新潮社、1968年