菅原第2回人との出会い

たいへんおまたせしました!インタビュー第2回目は「人との出会い」というタイトルでお届けします。大学闘争のあと、周囲の学生たちが秩序への復帰というのを着々と果たしていくなかで、菅原先生は現在にいたるまでものの考え方を決めてしまうような本に出会います。それと同時に、多くの魅力的な先生たちに出会っていく過程で研究関心も変化していきます。今回も長いですが、非常に濃密な内容です。
*第1回目掲載後、第2回目の公開時期についての問いあわせを多数いただきました。どうもありがとうございました。第2回目公開が遅くなってしまいましたことおわびいたします。
*このインタビュー記事は、書きおこし原稿(37,876文字)をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。

インタビュー第1回へ

メルロ=ポンティ

菅原
 私は1回生の終わりごろ、それまで住んでいた下鴨の下宿を追い出されてね。それはつまり、夜な夜な友人が来て、でっかい声でガーガーガーガー議論していたので、朝のお勤めが早いご夫婦がね、家の二階を下宿にして住まわせてくれてたんだけど、そのご夫婦にすごい迷惑をかけて「菅原さん出て行ってくれませんか」と言われて。それでもうすでに友人の北村とか、クラスメイトが何人も暮らしていた詩仙堂の上の狸谷のアパートというのに転がりこんで、北村と同宿になったのね。そこで、私と北村はだな、なぜか、ファインマン物理学を勉強しているクラスメイト達の向こうを張って、人間についてわかる動物学をするためには、この本が良いじゃないかと言って何の後先の考えもなく目を付けたのが、メルロ=ポンティ(注1)の『行動の構造』(注2)という本だったのね。
それを北村と二人だけですごい精密な読書会をしたのが、確か、2回生の秋頃かな。自分に一番大きな影響を与えた一冊を挙げるとしたら、その『行動の構造』だったと思うんだけど。それで、それまで自分が自然科学的な動物学というのに抱いていた、ぼんやりとした敵意みたいなものが、すべてメルロ=ポンティの言葉によって、「アー、そうだったのかー」みたいな感じで、自分のなかで収まるところに収まったという感覚がとてもあって。そういう意味では、若いころの読書というのはけっこう恐ろしいもので、自分の基本的なものの考え方というのは、その本を読んであらかた決まってしまった。それは、今に至るまで基本的な骨格は変わってない感じするね。そして、伊谷さんなんだけどな。

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伊谷純一郎先生(注3)

 これはねぇ、私の証言としてよりも、わが愛するクロちゃんの証言を語ったほうが適切だと思うんだけど。私たちにとって伊谷さんっていうのは、本当に、どれだけ尊敬してもしきれないくらい、素晴らしい師匠なんだけど、2001年の8月20日ごろにお亡くなりになって、それからかなり後になって聞かされた話で。つまり、これはクロちゃんと伊谷さんの初めての出会いの話なんだよね。
このクロちゃん、黒田末壽という人は今、滋賀県立大学の教授をしていて、ボノボ、いわゆるピグミーチンパンジー研究のパイオニアの一人なんだけどね。伊谷さんにとても愛されていてだな、旧ザイール(注4)の困難なフィールドに1年半放りこまれたという人なんだけど。それでまぁ、ピグミーチンパンジーの社会の、かなりの部分を黒田さんが最初に解き明かして、もう10年くらい前かな、『人類進化再考』(注5)っていう、素晴らしい本を出した。
私より2歳先輩で、私が1回生の時にすでに3回生か4回生かな。彼は理学部共闘会議長で、しかも熊野寮闘争委員会委員長っていうね、カリスマ的な魅力にあふれた素敵な人なんだけど。理学部1回生のとき、この先自分がどうふるまったらいいのかまったく分かんなくて、理学部共闘会議の根城に何人かで話聞きに行ったことがあるんだね。そしたらその部屋の一番奥でふんぞり返っていたのがクロちゃんだった。
このクロちゃんがね、共闘会議議長だからさ、率先して封鎖とかして暴れていたわけだ。京大の本部の学生部封鎖というのをやって、ずぅーっと学生部にバリケードを築いたまま膠着状態が続いていたんだって。そしたら当時の伊谷純一郎助教授はだな、理学部の学生部委員というのにさせられちゃって。それで、「しゃあないなー、この学生部封鎖しているやつの親玉は誰なんや」て訊いたら、「それは理学部の黒田でっせ」とか言われて、仕方なく、クロちゃんが人と一緒にシェアしていた一戸建ての家に、ある日ふらふらと伊谷さんがやってきたんだって。クロちゃんもその日、たまたまいてね、その家の縁側でさ、腰かけて、「このおっさん、学生部のバリケード何とかしろと俺に言いに来たんやなー」と思って警戒していたら、バリケードのことは一つも話さずに、チンパンジーがいかに面白いかという話を延々して(笑)、チンパンジーの話ばっかり一方的にしてスーッと帰っていった。その時にクロちゃんは初めて、今まで馬鹿にしていた大学の教師っちゅうのにも、面白いおっさんがおるんやなぁと、初めて思った。と、いうのがなんかね、最初の出会いだったんだよね。そういう学者に私たちは逢うことができたので、それまでずぅーっと培っていた大学の教師や研究者を侮る気持ちみたいなものを、やっと清算することができた。というのが、決定的に大きなことじゃないかな。

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 私の学部の時のもっとも幸せな記憶の一つは、4回生になって、その憧れの伊谷さんのゼミというのに、前期だけ出ることができたのね。それは本当に素敵な演習で、伊谷さんは当時、彼の主著の一つである、『霊長類の社会構造』(注6)という本がほとんど完成間近に差しかかっていた時期でね、そのために彼は大量の英語の文献を読み漁っていたんだよね。その文献を次から次へと私たちに与えて、毎週一人ずつが一つの種について発表するということをさせられたわけだ。その演習に結集したのが、私と北村と、ピグミーの研究をやるようになった寺嶋という、今、神戸学院大学の教授と、そして、今は霊長類研究所で形態学をしている毛利。その4人と伊谷さんだけのこじんまりとしたゼミで。私がその伊谷さんの演習の第1回目で、原猿類の社会構造に関する長大な論文を読まされて。伊谷さんの理論では、原猿類のなかに霊長類の社会構造のすべての萌芽があるという論理なので、原猿類の論文というのは伊谷さんにとってとても重要なんだ。そして一巡して、二巡目が回ってきた時に、スイスの霊長類学者のハンス・クンマー(注7)という人のマントヒヒに関する論文が、たまたま私の番になった。その時に、マントヒヒというのがどんな不思議な、複雑な社会構造をもった種かということを初めてつぶさに知って。それでマントヒヒに対して、強烈な憧れを覚えたんだよね。で、伊谷さんが言ってたことも忘れられないんだけど、「このクンマーという人は、本当に社会ということがよくわかっている人だ」というふうにおっしゃってて。「そうか、社会ということについてよくわかっている人と、わかっていない人といるんだな」というのがその時胸に深く刻まれたな。私たちはね、そのゼミですっかり伊谷さんに魅せられてだな、伊谷さんもとても楽しそうにしてらして、いやーなかなか良いゼミだった、と。

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田中二郎先生

 で、人類学との出会いだな。でもねぇ、なかなか話は複雑で、そのころ伊谷さんは霊長類学と並行して生態人類学というのを着々と切り拓きつつあったわけだ。なので、私もスケベ心を起こしてだな、大学院に入ったら、サルを跳び越して生態人類学をやろうかな、と実は思っていたわけだ。ところが、その年は院の入試倍率がけっこう高くて、私は第二志望でね、霊長類研究所っていうのを志望していたわけ。だけど、最初、合格の張り紙が出たときは、受かったのが第一志望の自然人類学教室か、第二志望の霊研かなんて、わかんないよね。そんで、「わーい、入った」とか言って喜んでいたら、何日かしたら下宿にお手紙が来て、「あなたは霊長類学分科に入りました」って書いてあって、ぎぇーって(笑)目の前が真っ暗になって。京都の街を本当に愛していたからさ、それからもずっと京都にいるんだとばかり思いこんでいたから、えらいショックだったけど。
でも、私にとってきわめて偶発的で決定的だったのが、そのぶつぶつ言いながら入った霊長類研究所というところに、なんと、助手で田中二郎という先生がいたことかな。これが決定的な出会い。
二郎さんとの出会いっていうのも、実に不思議で、よく覚えているんだけど。私は理学部の卒業研究で何をしたかというと、何を酔狂にと今になると思うんだけど、サルの解剖とか、きちんとできる最後のチャンスかもしれんと思って、当時、自然人類の助手だった形態学者の石田英實さんに指導されてだな、上肢筋肉の解剖というのをやったわけだ。すごいそれも一生懸命やったんや。「ニホンザルとテナガザルの上肢筋肉の比較解剖学」というのが、私の卒業研究のテーマで。で毎日その、人類の解剖室、解剖室ってあったんだ。ちゃんと立派な解剖台が置いてあって、終わるとシャワーで洗い流すという。よくその解剖室のシャワーで人間もシャワーを浴びるという(笑)不思議な部屋があって。そこに毎日通ってね、コツコツコツコツと、一本一本の筋肉を丁寧に剥がして、骨への付着部位を確定しては、スケッチしていた。もう本当に大変な作業でさ。腕なので、多少持ち歩いてもどうってことはないので(笑)、仕事が思うように進まなかった日は、その腕をビニール袋に入れてね、コルクの敷いてある小さい解剖台と、メスとピンセットを持って下宿に帰って、夜通し一生懸命に切り刻んだりするという一時期もあって。
そんなことを続けていると、ある夕方、石田さんが解剖室にやってきて、「二郎が帰ってきた。これから二郎の引っ越しの手伝いに行くぞ」って言われて、それで石田さんの車に乗せられて、あれよあれよという間に岩倉にある二郎さんの実家に行ったんやな。そしてその時に初めて、田中二郎という、もうすでに思索社から『ブッシュマン―生態人類学的研究』(注8)という本を出してた、まぁ憧れの研究者に初めて出会って。
その時に二郎さんはどういうタイミングかというと、1回目に26歳でカラハリに行ってね、その時の調査は、1年ぐらいだったのかな、よく覚えてないけど、日本に帰ってきて結婚して、すぐに赤ちゃんが生まれて、その嫁さん、憲子夫人と生後9カ月の長男・広樹くんと、3人で第2回目のカラハリに行ったんだね。その時は1年半ぶっ続けにブッシュマンのところいて。その前に霊研の助手のポストは決まっていたんだと思うけど。だから、霊研に就職するのとほぼ同時くらいに2回目の調査に行っているんだ。だから私がその、引っ越し荷物の搬入だか搬出に行ったときっていうのは、ちょうどその、1年半のカラハリ調査から帰ってきたばっかりだったんだ、二郎さんは。「おー、きみは霊長類研究所に行くんだって?」とか会話をした記憶がある。
霊研に入学してからは、私の一つ上の先輩の佐藤俊さん(注9)という人と、二郎さんと、三人で細ぼそと文化人類学関係の本とかの読書会をしたりしたこともあったんだけど。でも二郎さんはね、そのときまだ助手だったから、自分の弟子という感じですぐに大学院生を人間の研究に放りこむということに、立場上、躊躇があったんだよね。だから、佐藤俊さんもマスターの時は、白山のニホンザルの研究をしていて。佐藤俊さんはドクターになってからまもなくかな、二郎さんと広域調査をして、素晴らしいフィールドだというので、北ケニアのラクダ遊牧民レンディーレという人たちの研究を博士課程の2年目から始めた。私も、紆余曲折の末、幸島のニホンザルの研究をして、でも私は結局、大学院の間中、霊長類学をやる。いつかは人間をやりたいなあという気持ちはずっとあったんだけど、ひとつはね、幸島のニホンザル(注10)のハナレオス、群れから離れたオスの個体追跡ってのをしていたのだけど、それがとってもおもしろかったんだな。それともう一つは、指導教員になってくれた河合雅雄先生の組織する非常に大規模な総合調査隊が、エチオピアの雑種ヒヒの研究というのを始めて、これがまためっぽう面白くてさ。重層社会をつくるマントヒヒと、単層の群れ社会をつくるアヌビスヒヒとの間で種間雑種ができているという、謎に満ちた現象を社会学的に解明することが、私に与えられたテーマだった。学部のときあんなに憧れたマントヒヒを身近に見ることができるということに、因縁めいたものを感じた。ニホンザルとヒヒに熱中していたころは、ずっと霊長類学でもいいやっていうような気分にけっこうなっていた気がするね。

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 人類学への転向というのが自分にとってあんまり切実な欲望ではなくなった頃だな、ドクター5年目で2回目のエチオピアから帰ってきた直後に、二郎さんに「そのヒヒの研究が一段落したら、ブッシュマンをやってみんか?」と誘われて、ブッシュマンの調査隊に入るという約束ができあがって。実は有頂天になったんだけど。その冬に北大の助手の口にめぐり遭って、北大に就職したのが1980年で、2年間、ずっと札幌で一生懸命勤務して、82年になってやっと、カラハリ砂漠に、第1回目で行くことができた。
で、それからはずぅーっとブッシュマンの所に行くようになって、サルからは足を洗っちゃった。ただ、ヒヒに関する論文、ヒヒに関するデータっていうのはずっと長い間分析していたものがあったから、私が京大教養部に就職した1988年に、やっと3つ目のヒヒの論文が出ているような感じで、ずっとヒヒのデータは引きずってはいたんだけど。でも、もうすぐ6時になるっちゅうのに、用意された質問の、まだ最初の方くらいしか答えてないっていう。

院生
はい、一応1個目……(笑)

菅原
じゃあ2個目はなんでしたっけ?

院生
でも2個目はなんでブッシュマン研究か、なので……

菅原
あーそうか、それはもう、偶発的な出会いっていうことや(笑)

(第3回へ続く)

 

注1: Maurice Merleau-Ponty (1908-1961)。フランスの哲学者。
注2:滝浦静雄・木田元共訳、みすず書房(1964年)La structure du comportement (1942)
注3:伊谷純一郎(1926-2001)。人類学者、霊長類学者。『高崎山のサル』(1954年)で毎日出版文化賞受賞。1984年に人類学のノーベル賞と称されるトーマス・ハックスリー賞を日本人として初めて受賞。日本最初のアフリカ地域研究の機関として、京都大学にアフリカ地域研究センター(現アフリカ地域研究資料センター)を設立。『伊谷純一郎著作集(全6巻)』が平凡社から刊行されている。
注4:現在はコンゴ民主共和国Democratic Republic of the Congo(1997年-)。北西に位置するコンゴ共和国とは、19世紀まではアンゴラ北部とともにコンゴ王国としてひとつの領域であったが、19世紀のベルリン会議でベルギー領(現在のコンゴ民主共和国)とフランス領(現在のコンゴ共和国)とポルトガル領にわけられた。赤道州ワンバでは、日本の研究者が、現在も直接観察によるボノボ(ピグミーチンパンジー)の研究をすすめている。
注5:以文社(1999年)。『ピグミーチンパンジー:未知の類人猿』(1982年、筑摩書房)は、ピグミーチンパンジーの生態と社会を解明した先駆的な報告であり、第34回読売文学賞を受賞。
注6:伊谷純一郎著作集第3巻(2008年、平凡社)
注7:Kummer, Hans Primate Societies: Group Techniques of Ecological Adaptation (初版1971/2007, Aldine De Gruyter; Reprint)『霊長類の社会:サルの集団生活と生態的適応』(1978年社会思想社)。また、自らの霊長類学者としての探究の旅を回顧した、In Quest of the Sacred Baboon: A Scientist’s Journey (1995. Princeton University Press)も評判になった。
注8:思索社(1971年)。1977年に第2版が刊行され、その後1990年に新装版が刊行された。『ブッシュマン、永遠(とわ)に。:変容を迫られるアフリカの狩猟採集民』(2008年、昭和堂)ほかブッシュマンとアフリカ自然社会に関する著書・編著書多数。
注9:東アフリカ遊牧民の社会と生態に着目した人類学的研究に従事している。主な著書に『レンディーレ:北ケニアのラクダ遊牧民』(1992年、弘文堂)などがある。
注10:宮崎県串間市東部、石波海岸から200m沖合いにある島。戦後間もなく、京都大学の今西錦司に率いられ河合雅雄や伊谷純一郎たちが調査研究を開始。1952年に野生サルの餌付けに成功後、より詳細な観察が可能になる。サル1頭ずつに名前をつける個体識別法や家系図をつくるなどの手法がはじめられた。若い雌ザルが「発明」した芋洗い行動が群れの他個体へ伝播する過程や、子や孫にまでその行動が伝承されることをあきらかにした一連の研究は「カルチャー」論として脚光を浴びた。しかし、近年、認知心理学的な研究によって、芋洗い行動の普及は模倣学習では説明できない、とする説が有力視されるようになった。