フォトエッセイ

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「緑の谷」の重み
深川 宏樹

あれは確か長期調査を終えて、村を離れる数日前のことだった。私は家の前でホストマザーや友人たちと談笑していた。ふと訪れた沈黙の後、最も親しかった友人のひとり、エペが私にこう言った。「日本に帰って、体がだるいとき、私たちの顔を思い出せ。そのとき、私たちはお前を想って泣いているよ」。調査当初は意味の分からなかった彼らの言葉も、このときには理解できるようになっていた。私はただうつむいて、「ああ、分かった」とだけ答えた。
フィールドワークには「手触り」のようなものがある。言葉にするのは難しいが、体では分かっている、しかしやはり伝えるのは難しい、そのような感覚だ。人類学者はアカデミックな形式にしたがって理詰めの文章を書こうとするが、実のところ、窮屈な専門用語や「先行研究批判」というオブセッションに手足を縛られたまま、フィールで得た感覚を必死に伝えようともがいているのではないか。そう思うことがある。
私は2007年3月から2009年1月までパプアニューギニアで調査を行った。同国の内陸部標高1200メートル以上の地域は、ニューギニア高地と呼ばれ、そのなかでエンガ州ワペナマンダ地区サカ谷M村が、私のフィールドだ。エンガ語で「緑の谷」を意味するこの地には、その名の通り、青々と茂った木々と、実り豊かな畑が一面に広がる。これをもって、「サカ谷は神から祝福されている」と人々は語る。

写真1 「緑の谷」サカ谷

 村の主食はサツマイモで、毎日サツマイモを食べる。というか、ほとんどサツマイモだけを食べている。もちろん、タロイモにヤムイモ、各種の豆や葉野菜、カボチャ、バナナ、トウモロコシ、サトウキビなど多彩な食材がえられるのだが、食卓にのぼるのは圧倒的にサツマイモだけであることが多い。それゆえ、サツマイモ抜きに、私のフィールドワークを語ることはできない。村の人たちは20種類以上ものサツマイモを識別できるようだが、私が見分けられ、味の区別がついたのは、せいぜい4, 5種類であった。それでも、「これが同じサツマイモか!」と驚くほど、甘味や食感に大きな違いがあり、初めのころ、茹でたイモがあまりに甘かったので「これは何という食べ物だ?」と真剣に尋ね、その場にいた人たちに「お前はイモも知らないのか?」と爆笑されたことがあった。

写真2 サツマイモ畑

 イモの話はさておき、私は当初、村で経済人類学的な調査を行っていた。調査の過程で、村にあった商店が潰れた原因を調べているとき、村の男性Nが奇妙なことを言った。「Sの店が潰れたのは、俺たちがあいつに不満だったからだ」。当時の私は村落生活で理解できないことが多すぎたため、この発言も、フィールドノートに書き留めたものの、よく分からない事柄のひとつとして素通りしてしまった。しかし、その数か月後、私はその真意を知ることになる。

「重み(kenda)」のフィールドワーク

2008年1月のある晩、私は友人宅でヤギ肉をご馳走され、調査助手のマイケルと一緒に家にむかって夜道を歩いていた。いつもならもっと早く帰宅してフィールドノートをまとめるのだが、その日は盛り上がって、時刻はすでに深夜1時をまわっていた。先ほど食べたヤギ肉の味や部位について熱く語り合っていると、村の若者2人が早足に私たちを追い抜いていった。彼らは兄弟で、私のよく知るリニージに属している。マイケルが、「どこに行くんだ?」と声をかけると、兄が「上(山がちの地形なので「あっち」の代わりに「上」「下」の語を使うことが多い)」とだけ答えて、2人はすぐに暗闇の中に消えていった。村の若い教師(女性)が夜道で卒倒したという知らせが入ったのは、翌朝になってからだった。
若い女性が倒れたのは、ある老女の苦悩を原因としていた。老女は数年前、血縁者間の軋轢のさなか、深い悲しみと怒りを抱いたまま亡くなったと言われていた。この老女の感情はエンガ語で「重み(kenda)」と呼ばれ、その「重み」のせいで若い女性が病に倒れたというのだ。病を治療するには、近親が集まって「言葉をまっすぐにする(pii tolesingi)」という話し合いをもたねばならない。上述の兄弟は老女の孫にあたり、その話し合いに急遽呼び出されたのであった。
老女の苦悩から女性の卒倒まで、そこには長く複雑な経緯があり、ここで詳述する余裕はない。だが、この事件は私のフィールドワークにとって決定的な出来事となった。なぜなら、それまで繋がることのなかったデータの断片が、一気にひとつのまとまりをもって私の前に立ち現れる契機となったからだ。
事件の翌月、ちょうど長期調査の中間地点にさしかかっていたこともあって、私は一旦KJ法でデータを整理してみた。すると、複数のデータの山のなかにひとつだけ、奇妙な塊ができあがった。それは例えばこんなものだ。私が調査のひと月目に熱を出したのを見て、ホストマザーが言った言葉。「お前は日本にいる両親から離れて悲しいから病気になったのだ。白人はそういうのをホームシック(homesick)と呼ぶらしいな」。カメラがうまく動かず困っている私を見た男性Mが言った言葉。「もう諦めろ。こういうときは誰かが俺たちの悪口を言っているのだ」。そのなかには例の発言も含まれていた。商店が潰れた原因を尋ねたときNが言った言葉。「Sの店が潰れたのは、俺たちがあいつに不満だったからだ」。そして先日、老女の苦悩ゆえに若い女性が病に倒れた。
ある者の感情は、自他の身体、所有物、事業に影響を及ぼすということか。この仮説のもと、これまでどこか気になり引っ掛かっていたが、フィールドノートに埋もれていた様々な事柄の断片を寄せ集めるように調査を進めていった。私にとってフィールドワークの新たな地平が開けたのは、まさにこのときだ。

フィールドワークの重み

だが、それでもどこか腑に落ちない点があった。「重み」に関して、現地の論理を追うことはできても、私自身が身をもって了解することができなかったのだ。それが自分にしっくりと馴染むようになるまで、さらに数ヵ月を要した。
どのようにして「馴染んだ」かというと、それを言葉にすることは未だにできない。ただ、ひとつだけ確かなことは、より彼らと親しくなったことが大きかったと、今では思う。本格的に「重み」の調査を進めた頃、私は友人のKと一緒に昼食を終え、Kの家から彼の商店のほうへと歩いていた。彼とは調査の序盤からよくご飯を家で一緒に食べ、1年そこらの付き合いとはいえ、村のなかではかなり親密な間柄だった。ちょうど私が植民地期の話を尋ねていたからだと思う。彼がパプアニューギニアに住むオーストラリア人を批判したので、私はそれに同調する意見を述べた。すると、彼はとても静かな口調で、私が今でも忘れられないことを言った。
「ここには妻が2人いる男がいる(エンガ州には複婚家の男性がいる)。1人の妻は自分の好きなことを言い、もう1人の妻は全く逆のことを言う。夫は一方の妻の言うことを聞いては他方に怒られ、他方の言うことを聞いてはもう一方の妻に怒られる。2人の妻は、その夫を駄目にしてしまっている」。唐突に会話の筋が変わったので、彼が比喩を使っているのには気づいたが、その意味は分からなかった。そして彼はこう続けた。「パプアニューギニアにも幾人もの妻がいる。オーストラリアはその1人、日本もその1人だろう」。つまり、お前もオーストラリア人と大差ない、ということだ。
私は商店の前でKと別れたあと、まだ昼過ぎだったが、自分の家に帰って部屋に閉じ籠り、なぜKは私にあのようなことを言ったのか、私が何か悪いことをしたのかと悩み続けた。当然、パプアニューギニアでこのようなことを言われたのは初めてではなかったが、今回は他でもないKに言われたことが本当にショックで、私は傷ついた。どのくらい考え続けたか、そのとき、ふと、「だめだ、このままでは病気になる。外に出て、マイケルと話そう」と思ったのだ。
なんと安易なことかと呆れられるかもしれないが、このとき、親しい血縁者間の軋轢によって生じた不満や悲しみが人を病にする、「重み」とはこのような感覚ではないかという考えが頭をよぎった。当然、このようにありふれた出来事で理解できてしまうのならば、わざわざパプアニューギニアに行って2年間も村に住み込む必要はない。日本で、自分の家のベッドで寝ころびながら少し頭をひねればいいだけだ。しかし、この出来事が、「重み」の調査をしながらやはり腑に落ちないものがあった頃(言うまでもなく、それは今でも多分にあるのだが)、初めて身をもって、僅かばかりでも自分の了解が進んだ経験であったことは確かである。
長期フィールドワークの終盤になると、時折、一緒に暮らしていたホストファザーが「日本に帰っても、ちゃんと戻って来いよ。俺とお前はずっと一緒に食べて寝て同じ血だ。もし戻らなかったら、俺はお前に『重みを置く』からな。『重み』は血にあるのだから、日本にいても逃げられないぞ。それとも体から血をすべて抜くか?はっはっは」といったブラック・ジョークを飛ばすようになった。私は彼にあわせて笑ったが、その笑顔はひきつっていたに違いない。
フィールドワークには「手触り」のようなものがある。身体では分かっていても、言葉ですくいあげようとした途端、何かがこぼれ落ちてしまう、そのような感覚だ。調査初期には質問ばかりで言葉に溢れたフィールドワークも、調査が進むにつれて徐々に言葉が減っていく、あるいは質問が減る代わりに「手触り」を指し示して、確認するような言葉に置き換わってゆく。しかし、その言葉はいつもどこか不十分で、物足りない。人類学の論文は、その言葉をさらに学術的な言語で発することを求める。その意味で、論文は常に経験を後から追いかけるが、追いつくことを知らない。だが、その営みが学術的な言語を豊かにし、我々の思考を拡張することも確かだ。
今でも体がだるいとき、彼らの顔を思い浮かべることがある。神から祝福された「緑の谷」で過ごした日々の経験に、どれだけ私は近づくことができただろう。

写真3 豚肉で笑顔

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