2013年7月に院生2人が石井美保先生の研究室にお邪魔して、人類学との出会いやこれまでの研究経緯について伺ってきました。第3回目は「新たなフィールドへ」というタイトルでお届けします。研究から教育へ、そしてガーナからインドへと、活動の場をさらに拡げていくなかでの苦労や面白さについて語っていただきました。
*このインタビュー記事は、書きおこし原稿(約3万字!)をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。
(インタビュー第2回へ)
オランダ時代から就職まで
院生: 調査をするときの言語について教えてください。
石井:
タンザニアにいたときはスワヒリ語、ガーナにいた時はチュイ語をそれぞれ使っていました。ただ、ガーナにいたときは、土地の相続関係などの細かい議論はチュイ語ではわからなくて、現地の小学校の先生に通訳として入ってもらっていました。その人と一緒に村をまわって、現地語で村の人から聞いた話を、英語で通訳してもらっていました。最初はインタビューをすべて録音して、現地の人に文字におこしてもらって、さらにそれを英語に訳していくという作業をしていて、それは現地語を覚えることにも役立ちましたね。
院生: オランダでも研究されていたと伺いました。
石井:
2002年に博士号をとって、その翌年にオランダに行きました。アムステルダム大学の研究員として。田辺明生先生(注1)がファン・デル・フェール先生というアムステルダム大学のインド研究者とお知り合いだったので、田辺先生に紹介していただいて、Amsterdam Institute for Social Science Researchというところにいました。10か月くらいですね。
その間は、あまり研究はできませんでした。実は、行くと決まった時点で妊娠5カ月くらいの時期だったんです。向こうではピーター・ゲシーレというカメルーン研究者と、ビルギット・メイヤーというガーナ研究者が指導についてくれて、彼らのゼミに出たりしていました。英語で論文を書きながら、ライデン大学のAfrican Studies Centerにも通って、そこでライク・ファン・ダイクという人類学者がガーナ研究セミナーというものをやっていたので、そこで発表したりもしていました。
オランダはヨーロッパの中では自宅出産が盛んです。助産師さんのシステムも発達していて、町の中にあるヘルスセンターに通って、病院には行かず助産師さんに診てもらって、いざ生まれるというときには自宅に助産師さんが来てくれて、という感じです。オランダ在住の日本人の奥様のなかには、オランダでの出産経験をブログにアップされている方がたくさんいて、みなさん「よかった」と書かれていたので、それを読んで「私もいけるかも」と思ったんですね。
無事オランダで出産して、3か月間くらい子育てをしてから帰国しました。帰国後は暗黒時代というか(笑)、就活時代がありました。ちょうどそのころ、夫がインドに留学中で不在だったんです。なので、新生児を抱えて一人で子育てしながら…。その頃は学振のPDだったのですが、出産・育児による中断制度をつかって1年間、お休みしました。収入はないんですけど。その間にいろんな公募に応募していました。大変ですよね、ホント。いろんなところに応募するんですけど、やっぱり高倍率でなかなか受からない。その中で一橋大になんとか拾っていただきました。
院生:
石井先生にもそんな時期があったのですね。
石井:
一橋大学に籍をおいてからは、研究だけじゃなくて教育もするようになりました。清水昭俊先生(注2)の後任に私が入って、浜本先生(注3)のあとに来られた岡崎彰先生(注4)と、それから大杉先生(注5)と3人体制でした。
学部の講義とゼミ、院の講義とゼミなど、授業負担が大きくてなかなかフィールドに行けなくなってしまって。休みのときには入試の業務がありましたし。これはかなり大変でした。
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ガーナからインドへ
院生: 教員として働きはじめると、フィールドワークや自分の研究を進めることが難しいのではないですか?
石井:
おそらくどこの大学でも似たような状況だと思いますが、一橋大のときはまだよかったのは、当時は三人の教員が持ち回りでお互いの授業のコマを工面しあって、4年に一度ぐらい半期間だけ出られるような仕組みを作っていました(インフォーマルな形ですが)。それで2008年にその機会がまわってきて、そのときに初めて南インドの方に行ってみようと。それで運よく今のフィールドに出会って、調査を始めることにしました。カルナータカ州のマンガロールっていう都市の周辺の農村部ですけど。
院生: それも憑依現象とか、関心を惹かれることがあったのでしょうか?
石井:
私がフィールドを変える要因というのは一貫していて、なんというか、それまでのところを一回まとめてしまうと…ガーナについては博論をもとにした本を2007年に出版した(注6)のですが、そうすると何か、それ以上同じところで続けてやるモチベーションが少し下がってしまうんですね。
それで当初はアフリカで別の国、あるいはガーナの中で別のフィールドを探していたのですが、ただ、子供がそのとき3歳くらいかな、やっぱり長期で離れるっていうのがちょっとお互いに難しかったりして。一緒に連れて行きたいなっていうのがあった。そうすると、アフリカってやっぱり物理的にすごく遠いですし、食事とかインフラの面を考えるとやっぱり3歳くらいの子供を連れて行くには、都会ならともかくね、私が調査するような農村だとまだまだ厳しいんじゃないかっていうのがあって。
それで夫が北インドで調査をしているんですけど、インドはいいんじゃないか、という感じで。実は当初は、田中先生もインド研究者ですし、まわりもインド研究者が多いんですけど、あえてインドって避けてたんですよね。
院生:
それはどうしてですか?
石井:
学部の一年生の時に先輩と一緒に行ったのがネパールなんですけど、そこでなんというか、おなかを壊して。夜行バスで山道を行くようなところで、車酔いしたあげくに嘔吐して、脱水症状で死にそうになって、すごく大変な思いをしたんですね。でも、みんな「インドに比べたらネパールなんて天国だ」って言うじゃないですか(笑)。ネパールでこんなんだったらインドはどんなんだって思って。そういうのもあるんですけど。あと、インド研究者って厳しそうみたいな偏見があったりして(笑)。周りはみんなインド研究者だけど、私はアフリカ研究者っていうスタンスが好きだったところもありますね、あまのじゃく的に。
でもまあ、一度行ってみるかみたいな感じで。その前にも、実は夫がインドに留学していた時、私がPDをお休みしていた時に、娘が生後5か月から1歳前くらいまでデリーに住んでいたことがあるんです。デリーは本当に都会だし、当時はあまりおもしろいと思えなくて。住むにはいいところだなと思ったんですけど。
それで何年か経って、2008年に、今度は南に行ってみるかっていうことになって。最初はただの旅行として行ってみたんですが、そのときに、今研究しているブータ祭祀というのを写真か何かで初めて見て、これはおもしろそうだっていうのがあったんです。それで次に、わりと長期で行くとなったときに、最初はマイソールっていうわりと観光地化された都市があるんですけど、そこでしばらくうろうろして、何かできることを探してたんですね。
でも、マイソールはすごく住みやすかったんですけど、インテンシヴにこれがやりたいというものが見つからなくて。それと、その前の予備調査のときに見たブータ祭祀のことがどうしても忘れられなくて。やっぱりこれが知りたいという思いでマンガロールに行ったんですが、そこでチンナッパ・ゴウダさんという、マンガロール大の民俗学の先生に出会ったんです。その方はものすごく親切な方で、そのとき先生のところで修士課程を終えたばかりだった女性を紹介してくださって。彼女がアシスタントをやってもいいと言って下さったんです。そしたらたまたま、その方のお父さんの実家が、マンガロールでも有名なブータ祭祀をやっている村の領主の家系だったんです。それでそのまま、じゃあここで調査させてもらってもいいですか、という感じで、彼女を介してそこを、ペラールっていう村を紹介していただいて。
2008年当時は初めて娘も連れて行ったので、マンガロール市内にアパートを借りて住みながら、バスで2時間ぐらいかけて村に通っていました。その次の年ぐらいからかな、村に娘も一緒に住んで調査をするようになって。そうして現在にいたるっていう感じですね。
院生:
娘さんはインドをいやがったりはしませんか?現地語を習得したりとかはどうでしょう?
石井:
そうですね、最初は4歳くらいなので、よくわからないじゃないですか。だからついていくしかないっていう感じなんですけど、毎年連れて行って今9歳で「もうインド飽きた」って言ってますね(笑)。
現地語の習得はね、あんまりできないですね。やっぱり家族で行っちゃうと、私も家族のなかでは日本語をしゃべってますし。娘が仲良しになった村の子たちも、イングリッシュ・ミディアムっていう英語を使う学校に行ってたりして、英語でしゃべってますね。だから、家族で行くっていうのはいい面もあるし、わるい面もあるんですけど、わるい面は言葉が上達しないことですね。やっぱり一人で行くと、現地の家族に受け入れてもらって、生活すべてがその人たちと一緒っていうのがいい面だと思うんですけど、家族で行くと、一人前としてみられるということはあるんですけど、他方で、普段の生活は日本の調査と一緒で、調査に出かけていくっていう感じになる。だから私の場合は、なかなか言葉が上達しなかった。単に気合が足りてないっていう問題かもしれませんが(笑)。
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理論とエスノグラフィ
院生:
いままで先生が書かれたなかで、一番こだわりをもって出し切ったというのは博論でしょうか?
石井:
出し切ったというか、やっぱり大変ですよね、博論って。審査もあるし、プレッシャーが違います。足立先生がよくおっしゃっていたのは、博論は研究者としての資格みたいなものだと。だから早く取らないといけないって。そういう意味で素直に書けない部分もありますし。それに比べると、本の方が楽しんで書いたっていうのがありますね。本っていうのは一般の人が読者じゃないですか。だから、実際にはあまり読んでくれる人いないですけど(笑)、アカデミックな部分だけじゃなく、そのテーマに関係ない人が読んでもある程度面白いということが求められる。そういう意味では、本のほうが書きやすいというか、面白く書けるというのがありますね。
院生:
論文だと、やはり形式的なことを気にするという。
石井:
論文だとそうなりがちですね。論理構成、理論と事例を論理的に出していくのがやっぱり大事になると思うんですけど。でも、それも場合によりけりで、一橋大にいたときの落合先生の学生さんの中には、それこそポストモダンというか、ライティング・カルチャー以降の人類学という感じで、なんというか、小説的な博論を書く人もいましたね。私はスタイルとして、わりとイギリス社会人類学的なドライな感じが好きという面もあって、いわゆる実験的民族誌みたいに自分を表にだすのがこそばゆいという感覚があって。まあ、理想はエドマンド・リーチみたいな(笑)。それで補遺で、戦火で草稿すべてを失ったみたいなことを書いてちょっと泣かせる、みたいな。
院生:
やっぱり研究っていうとリーチ的なものが一方にあって、でも他方で実験的なものもあると。実験的な民族誌の中には、一見ルポルタージュに近いものもある気がしますが、その違いはどこにあるんでしょう?
石井:
ルポルタージュと人類学的な論文を分けるのは、やっぱり理論でしょうね。こういう研究の蓄積があって、こういう論争がなされてきて、そのうえでどういう立ち位置に自分が立っているのかっていうところから議論することが、論文かそうじゃないかを分けるポイントかなと思います。
だから、ひとつには人類学の関連する理論的展開をおさえた議論を、事例を踏まえてやるということ。もうひとつは、さっきも言いましたけど、もっと普遍的な問題関心とかテーマが必要になると思うんですけど。でも一方で、エスノグラフィックな価値というのは本当は別のところにあって、それはもちろんルポルタージュ的な部分があるんですけど、現地の人の生活とか社会経済とかをすごく緻密に記述しているということですね。エスノグラフィックな価値だけで理論的な部分がないと、それはそれでおもしろくないですし、理論的な部分だけが頭でっかちにあってエスノグラフィックな記述が少なくても、それは裏打ちされていないというか。自分の事例によって裏打ちされていなければ、新しいことは何も言えないですし。
フィールドワークに行ったら、ものすごい量のデータが集まってきて、何でもかんでも知ろうと思うとね、自分の手に負えないようになると思うんです。でも論文にするときには本当にその一部しか使えない。それをぎゅっと凝縮して、この事例だったらどの議論とぶつけることができるか、というところから考えたらいいかもしれないですね。
すべてを一度にまとめるというのは本当に難しくて、いろんなデータが集まってくる中で、核となる自分の問題関心に使える事例、それを表現するにはどういう記述をすればよいか、あるいは、同じようなテーマだけれども、どの理論を批判して、どの理論を援軍として使うべきかみたいな、そういう論理的な思考で論文ができるという感じですね。
まあ、それもエスノグラフィと個別の論文では構成がまったく違って、一本一本の論文は短距離走みたいなものなんですよ。それを駆け抜けるためには事例はそんなに多くなくていいんだけど、ピリッとした批判とかね、この事例だったらこの部分は批判できるとか。
だけど、博論やエスノグラフィというのは長距離走みたいなもので、もっともっと射程が長くないといけないですし、一貫した論理みたいなものを組み立てるのがすごく重要だし、大変。それぞれの事例と事例とのつながりも必要ですしね。そういう意味では骨太な作業ですね。短距離走と長距離走で走り方が違うように、単発の論文と長いエスノグラフィとでは書き方も違いますし。
(4回目につづく)
注1:東京大学教授。主な著書に『カーストと平等性―インド社会の歴史人類学』(東京大学出版会、2010)などがある
注2:国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。主な著書に『家・身体・社会』(弘文堂、1987)、編著に『周辺民族の現在』(世界思想社、1998)などがある。
注3:浜本満。九州大学教授・一橋大学名誉教授。主な著書に『信念の呪縛―ケニア海岸地方ドゥルマ社会における妖術の民族誌』(九州大学出版会、2014)、共編著に『メイキング文化人類学』(世界思想社、2005)、共訳書に『文化の窮状―20世紀の民族誌、文学、芸術』(ジェイムズ・クリフォード(著)、人文書院、2003)などがある。
注4:前 一橋大学教授。主な著書にRecapturing the Shadow: dream consciousness, healing and civil war in the borderlands between northern and southern Sudan (All Souls College, Oxford University 1999)などがある。
注5:大杉高司。一橋大学教授。主な著書に『無為のクレオール??現代人類学の射程』(岩波書店, 1999年)、共訳書に『部分的つながり』(マリリン・ストラザーン(著)、水声社、2015)などがある。
注6:『精霊たちのフロンティア―ガーナ南部の開拓移民社会における“超常現象”の民族誌』(世界思想社、2007年)。本書は第35回澁澤賞を受賞した。