風間第1回世界の外側にあるものに対する興味

2012年4月に着任された風間計博先生にインタビューする企画が実現しました!2012年にふたりの院生が先生の研究室にお邪魔して3時間以上にもわたってお話をうかがわせていただきました。これから、インタビューの全容を数回にわたってみなさんにお届けします。第1回目は、「世界の外側にあるものに対する興味」というタイトルでお届けします。
*第1回目のインタビュー記事は、書きおこし原稿(14,789文字)をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。

院生
先生と人類学との出会いについて教えていただけますか。

「最初は人間に興味なかったんだよ」

風間
いつも酒飲みに行ったときに話すようなことなんだけどね。でもそうか君はあんまりいなかったね。

院生
アルコールがないとしゃべれないとかですか?

風間
飲むか?ふーむ、でもさ、出会いと言っても、多分そういうものに対するもともとの興味ってさ、すごく遡ってしまうんだよね。最初は人間に興味なかったんだよ。

院生
本当ですか。では何に興味があったのですか?

**********

世界の外側にあるものに対する興味

風間
 動物とか化石とか石とか、人間の世界の外側にあるものに対する興味が小さいころからあってさ、多分、親の方向付けもあったと思うんだけど。幼稚園の時、先生が誕生月の園児の写真を撮ってくれて、その写真を将来の夢を書いた紙に貼り付けくれたんだよ。その時には「博物学者」とか「動物学者」とか書いてもらったと思う。もともとそういう志向があって。この前も酒飲んだ時に言ったんだけどさ、記憶はかなり曖昧だけど小さいころ、(幼稚園に入る前に通っていた)保育園に歩いていくとき、昆虫を捕まえたりするわけ。で、その時に「これは珍しい虫だ」と思って手を出して、噛まれて泣いた記憶がある。2歳ぐらいだと思うんだけど。後から考えたら多分、ノコギリカミキリだったんだよ(笑)。
そういうわけで、小さい頃から虫とかさ、集めまくったり。今でも実家に置いてあるんだけど、5歳の時に親にねだって買ってもらったのが、テイオウゼミという、世界で一番でかいマレーシア産のセミの標本。5歳の時に(笑)。そういうカンジで、あんまり人間に対する興味はなかったかな。むしろナチュラル・ヒストリーとか、いわゆる博物学的なものに対する興味の方がずっと強くあって。子供のころの時代状況からすると、戦争もそうだけど、環境汚染とか、ゴジラじゃないけど核兵器とか、公害病とか、そういうのを考えたときにむしろ人間は、破壊者で悪というようなイメージをずっと持っていた。人間は、非常に暴力的であったり、そんな悪いイメージ。

**********

 多分みんなそうだと思うんだけど、昔から本は読んでいたけどさ。よく覚えているのは、幼稚園のとき一番最初に読んだ文字(と挿絵)だけの本が、『ニルスの不思議な旅』だった。その後は普通に小学校の図書室にあった椋鳩十、江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」、「ファーブル昆虫記」とかも。ただちょっと変わっててさ、小学校4年生で『蟹工船』を読んだりとかして(笑)。あと科学マンガとかも適当に読んでたかな。
 小学校中・高学年の時にはまってたのがムツゴロウで、初期の『われら動物みな兄弟』、『天然記念物の動物たち』とか、『ムツゴロウの麻雀記』、ヒグマの『どんべえ物語』とか全部読んだ。親と喧嘩して家出したら、まだ当時鎖国していた北海道の「動物王国」に本気で逃げようかと考えていた。その頃公立図書館に通って、自然史系のところにベタッと居て、いろんなものを借りて読んだ。
それと実家から電車一本で上野まで行けるので、国立科学博物館に毎週土曜日に通っていた。博物館教室という企画があって、専門家が子供向けにレクチャーをしてくれた。結構有名な動物分類学の上野俊一という先生だったか、子供向けに東京近郊に棲息するサンショウウオの生態の話をしてくれたり。名前は忘れたけど地衣類の専門家の話を聞いて、イワゴケの天麩羅を食べたりとか。科博には小学校3年生の頃、「ソビエトの恐竜展」を見に行ったり。あと、確か後楽園だったと思うけど、シベリアで発見された冷凍マンモスを見に親に連れて行ってもらったりしたかな。貝塚にいって自分で土器片を掘り出したり、そういうことをやっていた。
 わりと小説とかも読んだけど、どちらかというと漠然とダーウィンとかウォーレスみたいなさ、博物学的なものに対する興味がすごく強くあって。図鑑の解説とか読んで。1冊8000円もする北隆館の『新日本動物図鑑』全三巻を毎年一冊ずつ、お年玉を貯めて神田神保町の書泉や三省堂に買いに行ったりしていた。あと、動物の写真集なんかを買ったのもその頃かな。岩合徳光の『滅びゆく日本の野生』とか、田中光常とか。変な小学生だよな。

**********

 そうだ、国立科学博物館の後に行った上野公園に浮浪者が結構いて、そういう人たちを見て、蟹工船じゃないけどさ、現代社会に対する批判的な視点というのか、矛盾は感じてたかもしれない(笑)。
そうかと思うと、昆虫やカタツムリとかカナヘビを捕まえて繁殖させてみたり、今でいうアクアリウムみたいなのを、カブトエビとかヒメモノアラガイとか、水生昆虫なんか入れて適当に作ってみたり。あと毎年、浅間神社の夏祭りの夜店で、カブトムシの雌雄を買って育てていたな。当時、今は丸井がある場所だけど、京成百貨店が上野にあって、屋上のペットショップがかっこよくてね。ジャクソンカメレオンとか、かなり高価だけど面白い動物をたくさん売ってて……で、カメレオンは高くて買えなかったけど、シリケンイモリという沖縄産のイモリとか、小さいイグアナを買って家で飼ったりしていた。冬眠中に落下したのを拾ってきたアブラコウモリも飼ったな。長生きしなかったけど。
あと野生動物の絶滅に興味があって、最後のニホンオオカミの本とか、小原秀雄の本とか読んだり。小学6年のとき、論説文を自分で書く課題が出て、400字詰め原稿用紙で15枚くらいの文章を書いた記憶がある。「野田の鷺山」といって、かつてシラサギのコロニー(集団営巣地)として有名で、国の特別天然記念物に指定されていたけど、サギがまったくいなくなってしまって、廃墟みたいになったところがあって。結構遠くで不便だったけど、迷いながらバスを乗り継いで、晩秋の寒々とした夕暮れ時にようやくたどり着いた経験とか、侘しい鷺山の風景なんかを書いた。農薬や宅地開発のせいで、サギが営巣しなくなったようだけど。破壊的な人間の営み。やっぱり人間は悪者なんだよな。で、その論説文を読んだ担任の先生が、湯川秀樹の自伝『旅人』の文庫本をくれたのを覚えている。
鷺山のルポルタージュもそうだけど、フィールドワークのまねごとみたいなのは、当時からやっていたかもしれない。小学5年のとき、夏休みの自由研究で、セミの抜け殻を何百個と集めて調べたりした。ただ集めるんじゃなくて、セミの種類や大きさ、雌雄、高さや場所、採集日時なんかを記録してさ。確か、種類ごとの特徴を図表にして、模造紙に書いたと思う。結構熱心に調べたのに、大した評価はされなかった。そういうのはだいたい、理科の先生が顧問をしている科学クラブの研究なんかが高評価を受けるんだよ。小学5年生1人じゃ太刀打ちできるわけない。
そういう興味が幼少時の記憶としてあるかな。それが直接人類学と結びつくかというと微妙だけど。ただやっぱり博物学って昔のダーウィンとかあの辺の時代のこと考えると、当時の探検隊って、人間も含めて全部、色んな非西洋的な事物を蒐集して分類してたわけ。そういう意味ではもしかしたら、僕も昔から人類学の近辺にいた可能性はある。大学の時、動物生態学を専攻するんだけれど。生態学も、その時代の博物学から近代的学問として発展したわけだ。だから人類学も生態学も、原点として博物学じゃないかという気はする。

**********

古寺巡礼にはまる

 その後中学校に行っちゃうと、今度はもうそういう興味が途端に断ち切られて。実際忙しくなったのもあるんだけど、運動部とか生徒会とか。なんとなく自然史に対する興味が途切れてしまって。
その頃、新たに海外の短波放送を聞くのにはまっていた。当時、全国の中高生の間で流行っていて。それなら、家で専用アンテナを立てて、空き時間に受信機にかじりついていればできるし。中学校1年生のときお年玉を貯めて、今度は動物図鑑じゃなくて、秋葉原で周波数をデジタル表示する、結構高性能なソニーの受信機を買った。出力の大きいBBC、VOA、モスクワ放送なんかだけじゃなく、ヘッドフォンをつけて雑音の中で微弱な電波をキャッチして、アルバニアとか、トルコ、リベリアとかコートジボアールとか、アゼルバイジャン、北イエメン、アルゼンチンとか、世界中の短波放送を徹夜して聴きまくっていた。国の名前はそれで覚えたと思う。
電波伝播の状態は太陽活動、黒点の数によって変わるんだけど、状態が良ければ、本当に遠くの国の放送が受信できることにすごく驚いて。受信報告書を書いて放送局に送ると、うまくすれば、放送局が受信証明カードを折り返し送ってくれたんだ。当時、そのカードを集めるのがブームになっていたな。あと、東西冷戦のさなかだったし、東向けの自由ベルリン放送とかもあったかな。東西お互いに自国民に聞かせたくない宣伝放送を、ジャミングという妨害電波をかけたり。もっと面白いのは、地下放送というのがあって、「マラヤ革命の声」とか、反体制派ゲリラが政府批判の放送を流していた。『ゴルゴ13』を読み始めた時期とも重なって、世界の動きがリアルですごくおもしろかった。
もうひとつ途中で挿入されてきたものとして、これも前の飲み会で言ってたんだけど(笑)、一時期、奈良の古寺巡礼にはまったことがあって、春休みとか夏休みに、中2から高1ぐらいまでかな。わざわざ新幹線に乗って行ったんだけど、別の学校の友だちに変わったやつがいて、コンタックスのカメラとかレンズを一揃え持っていた。そいつに付き合って、奈良の国立博物館の正面、東大寺の入り口あたり、今はなくなったんだけど日吉館っていう、毎晩、しゃぶしゃぶかすき焼きが出てくる名物旅館に泊まっていた。大学生とか、仏教美術の学者が泊まるような宿だったんだけど。
日吉館に泊まって、奈良のあちこち、京都の端っこに入るぐらいの寺も含めて色々な所の仏像だとかを見に行ってさ。宿の近辺の興福寺から東大寺、白毫寺、新薬師寺とか。東大寺のすぐ近くにある写真家の入江泰吉の家も見に行った。あと少し離れて、柳生街道とか岩船寺とか、あと京都に入っちゃうけど浄瑠璃寺とか。西方浄土の仏像とか庭を見ながら佇んで沈思黙考する、そういう渋いことを中学生の時にやったりした。明日香にもいったな。そういう方向に興味が変わって、本人としては、あまり矛盾は感じてないんだけど。現実世界から離れて何かを鑑賞する、見て考えるということは、博物館と関係しているのかもしれない。

**********

 それで日吉館っていうのが、土門拳という写真家が若いころに出入りしていた宿で、土門拳が酒飲んで騒いでたら、宿のおばちゃんに追い出されたとかいう話があったり。会津八一の書が飾ってあって、でも床が傾いていてボロボロだったり。僕はまだ中学生だったけど大学生が結構泊まってて、その時に紹介された本が、梅原猛の『隠された十字架』とか。「あれ、すごくおもしろいんだよね」と、同室だった医学部の大学生に言われて。中3の頃、梅原猛を何冊も読むようになってさ。その頃、偶々法隆寺の救世観音を見る機会があって、それが『隠された十字架』の中で重要だったりする。何故秘仏であるのかとか。教科書的には、最終的にフェノロサが再発見する秘仏だけど。
 そのころを思い出して、大阪に住んでいた博士課程の頃、二月堂のお水取りを見に行ったり、室生や長谷、海龍王寺とか不退寺に行ったり、山の辺の道とかも歩いたな。ごみごみしているので、実は京都はあんまり好きじゃなかった(笑)。中学生の当時、京都乗り換えで近鉄線を使って奈良へ行って。京都は、仏像好きにはたまんないかもしれないけど、奈良は、のんびり散歩するのに良い。最近、交通量多くて歩きにくくなった気もするけど。やっぱり、田舎道をチンタラ歩くのに奈良ってすごく良かった。だから奈良に行って、関係する本を読んだりしたけど、それもあまり続かなくなってしまった。
 それは運動部のせいなんだ。運動部が邪魔をした(笑)。高校では本当は入りたくなかったんだけど。顧問の先生が偶々体育の担当で「お前は陸上をやれ」とか言われてさ。中学校のころ県大会で入賞してたから、それで目をつけられて入部させられたわけ。だけど、夏休みとか合宿があるので、そうすると旅行に行くような時間も全然なくなってしまう。奈良とか仏像とか、そういうことに関する興味も、運動部の筋肉系のところですべて粉砕されてしまった(笑)。もちろん運動部はおもしろかったし、友人もたくさんできたし、いい経験をさせてもらったけど。

院生
では高校では一切そういうことはできなかったんですか?

**********

ローレンツ、フォン・フリッシュ、そしてティンバーゲン

風間
 できなかったね。ほとんど運動部で体力と時間を使い果たした。「目指せインターハイ」とかばっかりだったから。まったく博物学とか古寺とは関係ない生活をしてた。でも進路を決めないといけない。その時「いったい俺は何をすればいいのか」と悩んだ記憶があってね。もともとは生物学を学びたいという気持ちが、漠然とあったんだよね。ところが、高校の生物は、個人的にはつまらなくてね。代謝回路とか光合成、遺伝とか。子供のころ興味があった博物学とは全くかけ離れてたし、あまりおもろくないなと。生態学的なマクロな事象は、ほとんど出てこない。つまんないと思って、さぁどうしようと思った頃、ブームというカンジだったけど。何年か前に亡くなった日高敏隆がコンラート・ローレンツ(注1)を大々的に紹介していて、NHKでも番組が組まれていた。
 小学校の時に通っていた図書館に、確かにローレンツの本はあったんだよね、ちゃんと読んでなかったけど。それで、これはもしかしたら面白いかもしれないと思い出して、高校の時に本屋に行って、参考書の方ではなく、ローレンツとか動物行動学、エソロジーって当時よんだんだけど。今度はそういう本を買い漁るようになってさ。運動部でヘトヘトになっていたけど、当時は自分の興味あるものは読んだ。ローレンツは一般的な本も書いてるけど、翻訳が読みづらい『動物行動学』三巻本だとか、批判も多いけど『鏡の背面』とか哲学書みたいなのも。そんなのを読んだりとか。ハイイロガンのインプリンティングとか、おもしろかったけど。ここで幼稚園のとき読んだ『ニルスの不思議な旅』につながるかな。でも、実はローレンツは面白いけどあまり評価していなかった。

**********

 ローレンツが1973年にノーベル医学生理学賞をとってるのかな。その時いっしょにとっていたのがカール・フォン・フリッシュ(注2)というミツバチの行動について調べた人で、8の字のダンスとか。あともうひとりがニコラス・ティンバーゲン(注3)という人で……ローレンツは単に観察して記述していくという方法を緻密にやるんだけど。ティンバーゲンも定性的ではあるが、どちらかというと実験をするんだよね。今から考えると嘘くさいと思うのもあるけど。
 動物行動について、特にカモメだとかさ、鳥が多いんだけど。実験的に再現できることをやって、動物の本能を探るようなことをしていて。東北大学の永野為武という人が翻訳した『本能の研究』という結構古い本があってね。そんなのをいろいろ読んでいた。あともっと実験系のアメリカの動物心理学とか。マウスの迷路実験のような、その手のやつ。たぶんね、培風館あたりの本。培風館って、当時の大学教養部の教科書なんかを出していた。あと思索社とか。そんな本を一生懸命読んだりしてた。
 あと、1980年代……ニューアカデミズム、ニューアカって、浅田彰、中沢新一、そのボス的な存在が最近亡くなった吉本隆明……。山口昌男なんかもそうだし。文化人類学としては山口昌男が前面に出ていて、新書や文庫本でも随分売れていたからね。ウィキペディアであがっているのを見るなら、レヴィ=ストロース、ラカン、アルチュセール、ソシュール、バルトとか、フーコー、ドゥルーズ、デリタなど。ニューアカの影響で流行った時期があったんだよ。
 今から考えると単なる流行というか、単に消費されてしまっただけの感があるけど、大学生ぐらいが中心だったのかな。でもちょっと生意気な高校生が「レヴィ=ストロースがさぁ」、「フーコーがさぁ」みたいなことを喫茶店でタバコふかして、コーヒー飲みながら言ってたりさ。そういう時代だった。多分、影響を多少受けていて、『構造と力』、『スキゾキッズの冒険』とかも読んでたかな。そういう中に、山口昌男の『道化の民俗学』なんかも入ってくるし。レヴィ=ストロースとかも……高校生がちょっと翻訳本を読んでるぐらいだから、まともに理解はしてないけど。
 高校3年の6月に、陸上の関東大会で四継(4×100mリレー)のアンカーで肉離れを起こして、衝撃的な引退をせざるをえなくなってね。その前日に、マイル(4×400mリレー)の決勝進出を決めていたのに、全部ふいになった。

**********

風間
専門書として読んだのは動物行動学系の本なんだけど、そうでないものとして、ニューアカ系の影響はあったと思う。高校最後位の頃じゃないか。

院生
周りの人もそういうの読んだりしてましたか?

風間
 一部ね。ただもっと古典的な文学青年っぽいやつとかいたよね。幼稚園の時に一緒だった友だちがいて、2人とも小学校を転校して、高校の運動部でばったり顔をあわせて。彼なんかは途中で運動部を辞めたんだけど、本読む暇がないといって。僕のいた高校っていうのが旧制中学の系譜をふむ公立男子校だったんだけど、彼曰く「もっと文学青年がいるかと思ったのに」と失望していた。結局ドイツ文学に行ったと思うけど。彼は冬休みに東京銘菓のヒヨコ売りのバイトなんかしてお金を貯めて、小林秀雄全集を買うようなやつだった。そういう、まだ古い時代の何かが残っていて。
 運動部の友だちで、たぶん今エンジニアになっているのだろうけど、工学部に行った友だちは、高1の時、岩波文庫とか読むのが当然という雰囲気があって。「ソクラテスの弁明を読んだか」とか、そんなことを部室で話していた。ニューアカより、もうちょっと古臭い感じだったのかな。
 わりと昔の教養主義的な価値観がまだちょっと残っている一方で、男子校って変なとこだったから……スポーツ大会が無茶苦茶多くてね、遠泳とか、50キロ強歩大会とか、10キロ走、ラグビー大会とかね。そんなのばっかりかと思うと、学園祭は男子校だから女の子がいっぱい来てナンパするような奴もいて。
 あと、変なヤツがいてさ。左翼的なのもけっこういたんだけど……高校の校則がなかったんだよ。一世代上の学生運動の時、粉砕されてなくなったようで。でもみんな一応学ラン着てくるんだけど、それに抵抗してずっと私服で来てるやつがいた。修学旅行が京都・奈良だったんだけど、「制服着ていかないと連れて行かない」という教員に反抗して、結局、修学旅行に行かなかったとか。某大学を受験した時、受験生なのにビラ配ってたという噂で……しかも落ちたという(笑)。そうかと思うと、当時初代ウォークマンが出てさ、まだテープの時代。聞いた話だけど、「お前何聴いてるの」って訊いたら「君が代」とか。今の高校生にそういうやつはいないかもしれない。なんか変な所だったんだ。
 生き物は面白いというところを感じつつ、大学では理学部というところに入ったわけだ。まあ理系も文系も得意じゃないし、金儲けに役に立たない学問なら、何でもいいというカンジだった。

院生
東北大学ですよね

**********

友だちが多かったのが理学部と文学部

風間
うん、そうだよ。で、仙台行って……あれ、時代の雰囲気に乗せられたんだな。東北新幹線ができて、まだ間もなかった。JRも結構キャンペーンやっていてね。僕らの高校から、同じ年に40人ぐらい行ってるんじゃないかな。当時、周りに首都圏出身者がやたら多かったし。だからね、世の中に乗せられないで生きようと思っていても、結局乗せられている自分に後で気づくわけ。自律的に考えた選択は、実は他律的かもしれないと。
高校陸上部で、僕は高校2年のときリレー種目でインターハイ行ったんだけど、そのリレーメンバーの4人のうち3人、第2走の同級生が東北大工学部、第3走の先輩が歯学部、アンカーの僕が理学部っていうね、みんな理系の違う学部に行ってさ。それ以外の人もいたから、途中でやめたやつも含めれば、陸上部だけで6、7人かな。今はそんなに多くないだろうし、以前は少なかっただろうし。一時期だけ四十数名というね……みんな乗せられてたんだ。新幹線ができて。大河ドラマ「独眼竜政宗」も放映されたし。
大学に入ったら、また今度は高校陸上部の先輩が、当時、工学部助手で陸上部のコーチやってたんだよ。その時、飯に連れて行ってもらって「陸上部に入らないか」と誘われてね。その時は「もうタバコ吸いまくって肺がボロボロです」って言って逃げた。
理学部って結構おもしろいところだった。友だちが多かったのが、なぜか理学部と文学部なんだよね。世の役にたたないことをやっているという共通性が結構あってね。理学部って理論物理学とか天文学とか、現実離れしたわけわんない世界が正統派なわけ。純粋な数学にしても。世の中の役にはたたない。そういうことを考えた時に、理学部と文学部はきわめて近接していて、たぶんそれで友だちが多かったんだよ。
理学部の友だちの中には、今じゃ普通かもしれないけど物凄いアニメオタクがいたり、SFに無茶苦茶詳しいやつがいたりとか、音楽に詳しいやつとか、マッド・サイエンティストに憧れていると公言するやつもいた。ある友人の家に行ったとき、そいつが化学専攻なのに、ウィトゲンシュタイン全集がばーっと並んでたり。風呂もない四畳半一間の小さい下宿にさ。ウィトゲンシュタイン全集がある。それが理学部っぽいところなのかな。

第2回へ続く

注1:オーストリアの動物行動学者(1903-1989)。刷り込みの研究者で、近代動物行動学を確立した人物のひとりとして知られる。
注2:オーストリアの動物行動学者(1886-1982)ミツバチの研究者。彼らのコミュニケーションの手段としての8の字ダンスについて発見。
注3:オランダ人の動物行動学者で、鳥類学者。(1907-1988)