風間第2回土方のフィールドワーク

2012年度4月に着任された風間計博先生にインタビューする企画が実現しました!2012年にふたりの院生が先生の研究室にお邪魔して3時間以上にもわたってお話をうかがわせていただきました。これから、インタビューの全容を数回にわたってみなさんにお届けします。第2回目は、「土方のフィールドワーク」というタイトルでお届けします。
*第2回目のインタビュー記事は、書きおこし原稿(14,789文字)をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。

インタビュー第1回へ

小説、映画

風間
 大学に入って、ようやく運動部から離れて時間の余裕ができた。授業はあまり行かなかった。午後起きて、夜に酒飲んで友だちと馬鹿話したり議論したり、そういう時代だった。ニューアカブームもあって、雑多な形で人類学とか現代思想的とか、サルトル、ボーヴォワール、ニーチェ、バタイユなんかを読んだりした。当時の若者の定番、ボードレールの『悪の華』、ランボー『地獄の季節』とか……。あと小説も、時間ができて読むようになった。この前、菅原さんとも話したけど。
初期の村上春樹作品とか。『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』の三部作。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は一晩で読んだ。あと映画を見たり。『風の歌を聴け』の映画もあった。小林薫が主演だったかな。外国映画を結構好んで見た。タルコフスキーの『惑星ソラリス』『ストーカー』はいちばん好きな映画だな。エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』『イワン雷帝』とか。あと、ヌーベルバーグのリバイバルがあって、ゴダールの『気狂いピエロ』『勝手にしやがれ』『ゴダールのマリア』、トリュフォーの『突然、炎のごとく』『大人はわかってくれない』とか、アラン・レネの『去年マリエンバードで』とか。新作以外にその辺りの映画を観た。あとはロマン・ポランスキーの『水の中のナイフ』とか、東ヨーロッパ系の映画をよく観ていた。
小説で一番読んだのは安部公房かな。実存主義とか、カフカとリンクして。『デンドロカカリヤ』『燃え尽きた地図』。文章の美しい三島由紀夫も一生懸命読んだけど。そういう雑多なものを読んで。当時は村上龍の小説もかなり人気があって、『コインロッカー・ベイビーズ』『愛と幻想のファシズム』とか。
映画館は仙台にはあんまりなかったけど、名画座があって古典的な映画を上映していた。ほかに、タルコフスキーの『サクリファイス』を上映していた映画館もあった。あと、大学構内で教室を使って上映するイベントもあった。『惑星ソラリス』とか『炎のランナー』も大学で初めて観た。
あと、大学のそばに美術館があって、なぜかそこの初代館長が、動物生態学教室の名誉教授だった加藤陸奥雄という人物だった。そこで割と面白い展覧会が企画されていて。シュルレアリスムの映画など、毎週土曜日に古い映画を上映していた。ダリの『アンダルシアの犬』とか。ハンス・アルプの展覧会とか。アルプのオブジェが床からにょきにょきと無数に生えている、不思議な光景のなかに佇んでいた記憶がある。
夏休みとかに実家に帰るとね、当時『ぴあ』という雑誌にいろんなアート情報が出ていたわけ。それを見て、渋谷や六本木の映画館のレイト・ショウとか、白山の三百人劇場とか。小規模な美術館、原美術館とかにも何度も足を運んだな。原美術館は、品川の旧ユーゴスラヴィアの大使館の近くだったけど。あと神泉の渋谷区立松涛美術館とかね。他にもブリヂストン美術館とかサントリー美術館とか、わりとそういう所に行ったりしてね。『イブ・クライン展』とか、『ダダとロシア構成主義展』とか、当時の池袋西武の美術館もかなり良かったな。クルト・シュビッタース、アレクサンドル・ロトチェンコ…。
理学部だったけど、結局そんなことばっかり。まぁだから、高校時代は運動部にいて、暇がなくてできなくなったけど、解放されて趣味的な方向に戻っていったというところか。ただ、昔の自然史系の博物館から、美術館の方に移っていった。理学部に行って、人文系の方にないものねだりに走ってしまったということかな。科学哲学とか、趣味的に読んでいたりした理由も。この辺りで、文化人類学に接近してきたもしれない……。まだ遠いか。

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動物の行動を機械的なモノとして捉えているカンジ

風間
 それで動物の行動学の話。ティンバーゲンのさっき言った『本能の研究』っていう本だけど、それを翻訳した人が昔の東北大学の先生だった。でも当時、そういう系譜が無くなっていて、教養部の生物の先生が、動物生理学専門でハエの味覚や行動を研究していた。電気生理学だったかな。その先生が「動物行動学のゼミをやりましょう」と。1・2年生を集めて読書会をしていた。当時の本(Behavioural Ecology)がその辺に一冊残っているかも。大学の1年生のとき。ゼミというか、自由参加の読書会があった。
でも、その時読んだ本で描かれる動物の捉え方が、ものすごく機械的。動物行動を機械的なものとして捉えているカンジがあって。生存と繁殖、最適採餌戦略とか、エネルギーを最大に獲得する戦略とか。ブームになったのがソシオバイオロジー。ドーキンスの「利己的遺伝子」。あまりに単純に、合理的な発想で生物の行動分析をする発想が強くて、なんかつまんねぇなと思って。ただ当たり前ながら、合理的に説明しなければいけない、自然科学は。
合理的思考はわかるんだけど、人間を含む生物進化や人間の行動も一律に考えてしまう事に対して、強く反発を感じたのかな。動物行動に関する、当時の議論の味気なさっていうのをすごく感じて。その反動として、自分探し的な動機があったのかもしれないけど、美術とか文学とか、まぁ思春期って実存や世界や宇宙を考える時期だから、そっちの方に走ったのかな。一応、理学部だから数学とか化学とかも勉強しなきゃいけない。そうではないところに、気分的なバランスとるために走っていたのかもしれない。
当時の大学は、教養部と学部に完全にわかれていた。教養部ではまだ学生運動の残り香が強く漂っていた。私服警官が教養部の門の前うろついていると、ヘルメット被った過激派の学生が走っていって警官を追い出したり。俺はノンポリだったけど。バイクに乗っていて警察官に何度も止められる日があった。なんでこんなに止められるのか聞いたら「内ゲバがあった」とか。当時、世の中からはほとんど見えなくなっていたけど、京大と東北大はそういう運動が残っていたと聞いたことがある(笑)。立て看なら、当時まだ駿河台の明治大にもあったかな。もうバブル経済に入る直前くらいの時代だったけど。
それで、教養部が終わって3年目から、学部のキャンパスに行くわけ。山に登って。理学部は山の中腹にあった。学部にあがって、今度は動物生態学だけど、僕のいた研究室っていうのは2つのグループに分かれていて、片方は微生物を扱っていた。システム・エコロジー、ポピュレーション・エコロジー(個体群生態学)をやっている研究室だった。その辺りの本、もう持ってないな。実家に置いてあるかもしれない。シャーレの中に微生物を2種類入れて培養して、コロニーの増減を見るわけ。で……うわっ、気持ち悪い(当時の本を見ながら)。僕は実は芋虫とか毛虫が大嫌いなんだよ。

院生
虫好きなんじゃないんですか?

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「君イイ身体してるねぇ」

風間
 虫は好きだけど、なぜか芋虫と毛虫は嫌いなんだ。自分でも不思議だけど。それで、微生物の方は、ちゃんと実験室で白衣を着て、オートクレーブ(加熱圧力器)で滅菌処理して、シャーレのなかの微生物のコロニーを数えて。時間系列でこういう風に(シグモイド・カーブ状に)増えていくっていうのをグラフにして、数式モデルを作る。いろんな条件、培地の栄養素を変えたり増減したり、競合させる微生物の種類を代えたりして。一方の微生物が増殖したのに、もう一方が減っていくとか。競争させて、動態を数値でみて解析する。数理生態学というかな。そういう事をしている研究室だった。
もう片方のグループがフィールドワーク。研究室の教授(栗原康)は、マイクロコスムっていう、閉鎖系のなかでの微生物のインタラクションを研究していて。オダムとかマルガレフとかの教科書を読んだ。閉じた世界の中での生物の種間関係とか、排泄物をどう処理するかとか、「宇宙船モデル」とか。その本(岩波新書『有限の生態学』)にもでてくるけど。それで、シャーレのなかだけじゃなくて、エコシステムとして、かつて羊のルーメン(反芻動物の胃)を使ったりしていた。当時、干潟も1つのフィールドだったんだけど……本当は、僕は微生物の方をやりたかった。白衣着てさ、サイエンティストらしく。でも当時はまだ運動部の筋肉も残っていて……。
「君イイ身体してるねぇ」って自衛隊の勧誘か、みたいなカンジで何故か知らない間にフィールド・グループの方に引っ張られてしまった。で、結局、七北田川河口部の蒲生干潟で、「人生ゲーム」に出てくる貧乏農場の強制労働みたいなことをしていた。
例えば、フィールドの干潟と大学の温室で、実験用ポットにアシ(葦)を植えて、重金属など、アシの環境浄化作用を研究している先輩がいた。実験のために、混合割合のセットを作る必要がある。その作業に物凄い人手がいるわけ。それで、小舟を出してさ、柄杓で海底のヘドロを採って集めて。炎天下の砂浜で、砂をバケツに入れて運んで。実験用ポットに砂50パーセント、ヘドロ50パーセントを入れたり、あるいは砂100パーセントとか。だからハイライト咥えながら、両手で砂とヘドロの入ったバケツを持ってさ……正に、「土方のフィールドワーク」をしていたね。ある日はその作業をやって、翌日は干潟に入って、ふるいを使って別の学生が実験に使うゴカイを採集したり。

タニシツアー

風間
 僕自身は、結局自分の研究より人の手伝いが多かったと思う。卒業研究は一応、ラボで移動実験をやっていた。その材料がタニシ(マルタニシBallamya[Cipangopaludinachinesis laeta)とイトミミズ(エラミミズBranchiura sp.)だった。フィールドの作業の、片手間にラボで、目が疲れる仕事だった。
農学部の実験農場があってね。田んぼを何枚か借りて、全体を網で覆って、そこにみんなで田植えをして、タニシを放した。そのタニシを各地から採ってくるんだ。3種類のタニシを扱っていて、オオタニシ(Ballamya [Cipangopaludinajaponica)と、マルタニシとヒメタニシ(Ballamya [Sinotaiaquadrata histrica)。オオタニシは仙台の北にある沼で取ってきたと思う。
捕まえてきたタニシを農学部の水田に放した。もちろん雄か雌か、貝殻が何ミリか全部測って記録して、ペンでマーキングして放す。それを秋に回収して再び計測して。僕の実験じゃなかったけど……。僕はそのとき取ってきた小さいマルタニシやイトミミズを使って、研究室で実験したわけ。
すごくおもしろかったのは、小学生の時、上野の京成百貨店のペットショップで売っていた水生昆虫(ゲンゴロウ、ガムシ、タイコウチなど)が、池や水田で結構ウヨウヨいたこと。実験とは関係なく捕まえてズートロンという実験室で飼っていた。イモリも結構いた。イモリもね、小学生の頃、浅草「花やしき」で買って飼育した記憶がある。それがフィールドで目の前にいるんだ。
あと面白かったのは、たぶん科研かなにかのプロジェクトだったのか、僕が勝手に「タニシツアー」って呼んでいるんだけど。理学部のワゴン車で、助手の鈴木さんと技官の方、先輩の山崎さんと僕という、むさい男4人で東日本各地を回ってタニシを採ったり、屋外用の実験系を組み立てたりしに行った。
新潟県の小千谷は錦鯉の養殖がすごく盛んで、養殖池でタニシがいっぱい採れた。後は、埼玉県の川越にも行った。名所の喜多院の近くに沼があって、そこは水質が良くないので、汚染に強いヒメタニシが結構たくさんいて。沼の岸で、取ってきたタニシを計測、マーキングして。木枠に網を張った実験系の箱を作って、タニシを入れて沼に沈める。理学部のワゴン車で行ったんだけど、中には角材とか網とか、ゴム胴衣、バケツ、柄杓とか、トンカチ、釘、工具とか、そんなものばっかり積んでいて。タニシを入れる実験用の箱を岸辺で作って……だからワゴン車に理学部と書いてあったけど、実際には土方の行脚みたいでさ。長靴のつながった胸高のゴム胴衣を着て、泥水の中にジャバジャバ入っていって。濁った沼で下が見えないから、深みに足を取られてバランスを崩すと、胸上まで泥水がきて胴衣の内側に入って……泥水で全身ずぶ濡れ。沼から岸にあがって、ふと手をついたらそこにミツバチがいて刺されたり……

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 そういう悲惨な大学4年の卒業研究というか、フィールドワーク(野良仕事)をしていた。僕自身はイトミミズとタニシを同居させて、忌避するかどうかとか……今はペーパーや資料は行方不明だけど。基本的に水系の生態学だよね。干潟とか水田とか。生態系の構成要素である生物の種間相互作用に着目するという研究方向。
やや応用的だったのが、さっき言ったアシの環境浄化能力を見るために、初期段階で重金属がどのくらい入っていて、実験後にどのくらい除去されたか、ガスクロマトグラフィで含有成分を分析するような研究。あと、僕も下水処理場に何度も行って、処理の過程でできる活性汚泥という有機物と微小生物の塊(フロック)を貰ってきた……かなりくさいんだけど、屎尿処理過程の産物だから。それをタニシとかイトミミズの餌にしたり。
……肉体労働に通った蒲生干潟も、震災の津波で壊滅的被害を受けてしまったようだ。シギとかチドリ、カモといった渡り鳥がたくさん来るところで、バード・サンクチュアリのような感じ。小高い観察ポイント(日和山)があったけど、それも無くなったらしい。あの当時、フィールドワークに行って干潟の近くにあったウナギ屋さんに、たまに贅沢に食べに行ったり……で、エネルギーを付けて肉体労働をするという繰り返し。
4年間仙台に住んで、人間関係とか色々と面倒くさくなって、生物学にもあまり興味が持てなくなって、そのまま理学研究科に進学しなかった。当時すでにバブル経済が始まっていて、就職すると給料がかなりいいという時代。就職した先輩を見て、研究者としての将来も不安だったし、まずは一度社会に出た方がいいのではないかと……。金にならない学問をやる理学部に拘っていて、もともと研究者志向だったけれど……。

第3回へ続く