菅原第4回大きな課題と人類学の魅力

たいへんおまたせしました!インタビュー第4回目は「大きな課題と人類学の魅力」というタイトルでお届けします。3回目のインタビューでは、ブッシュマンの研究から生き方の多様性を語っていただきました。最終回のインタビュー(2011年8月実施)では、今後の課題、人類学の魅力について語っていただきました。
*このインタビュー記事は、書きおこし原稿(37,876文字)をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。

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恩誼に報いる道

菅原
 そういうふうに思う気持ちと連続していると思うんだけど、私は本当にカラハリに行くと、大きな解放感にいつも満たされるんだよね。それは、日本の職場の神経をすり減らす、つまらない雑用から解放されているっていう、そういう解放感は強いんだけど、それ以上にやっぱり、わが友人たち、私の本によく出てくるキレーホとかタブーカとかね、そういう友人たちが目の前にいて、闊達にしゃべっているののそばにいるというのが、こよなく良いんだよね。心が洗われる気がする。それは、彼らの生き方が私とずいぶん違っているから、会うたびにとても新鮮な驚きとなって私に押し寄せてくる。その意味でやっぱり、一番大事なことは、生身の人の身近にいて、生身の人の肉声を浴びているということが、人類学にとって一番根源的な経験だと思うのね。だけど、そうやって生身の人といて生身の人の肉声を浴びることの素晴らしさというのは、何らかの形で定着しない限り、私一人の記憶として失われてしまうということはとても恐ろしいことだと、特に、自分の残り時間を数えるようになってからひしひしと思うようになったんだよね。そんで私は、フィールドでは彼らにとても良くしてもらって大事にしてもらって、まぁかなりの給料を払っているということもあるんだけど、優しくしてもらっていて、その彼らに対して、非常に大きな自分が恩誼を受けているよね。その恩誼に報いる道というのはなんだろうかと思ったときに、それは、学校教育を受けた若い世代は別として彼ら自身は文字を知らない人たちだから、別に私が何を書いたって、読めるわけではないんだけど、それでも彼らの人生の輝きというのを全面的に書き残す必要があると思う。だけど、こうやって毎年ね、夏休みアフリカに行っていると、語りのデータがどんどん集積されていくんだけど、それを書き表す時間が無いよね。
私の大学での生活をおわかりだと思うけど、いつもバタバタ雑用していて、どうしても夏休みという時間を確保しないと、大量のデータを秘蔵したまま、自分の人生も終わってしまうというふうに冷静に計算すると、もう少なくとも当分の間は、フィールドに行くことを自らに禁じなければならないと。これが去年の夏(2010年8月)に、とても苦い思いで到達した、一つの結論なのね。書くという作業にある程度、見通しがつかないと、もうフィールドに行ってはいけないと(注1)。でも、それは私にとって本当に苦渋の決断で、私は現地調査助手たちに思い切って申し渡したんだけど、私よりかなり年長のギュベという男は苦笑して、「だったら次にお前が来るときには俺はもう死んでいるなぁ」と言ったんで、私も「そうかもしれないなぁ」と、とても悲しい気持ちになって。でもやっぱり、どこかで何らかの形で節目をつけないと。だから私が今、全力を尽くしてやらなければいけないことは、その生身の彼らが私に語った口頭言語というのを、どうやって読む人すべてがそこから原野の人生の輝きをわかるような形で書き記すことができるのか、ということ。これが一番大きな課題ですな。

動物論

 そして、もう一つ、これが一番最初に片づけなければいけない課題なんだけど。それは私が集めてきた膨大な語りのかなりの部分が、ブッシュマンと動物との関わりなんだよね。その時にやっぱり、動物論というのを今までにない形でやるためのキィワードというのは、「境界」という概念だと思う。動物と人間との境界、それから動物を契機にして、人間と人間との間に張りめぐらされる境界、その境界ということをキィワードにして、動物論というのを何とか仕上げなければいけない。うーわ、そうやって数えあげてみると、もう途方もないな。もう絶対時間切れになると思うんだけど。

ジェスチャー論

 そして、もうすぐにでも原稿を書き始めなければいけないのは、ジェスチャー研究なんだよね。これはもう、準備はあらかた整っているので、今、ひたすら、英語でたくさん出ているジェスチャー論の本とかを読んでいる(注2)。睡魔との闘いなんだけど、これは(笑)。このジェスチャー論というのは、いわゆる心理言語学とかで最近ものすごく精密にやられているので、同じようなことをブッシュマンで繰り返してもつまんないんだよね。つまり、ジェスチャー論というのには、独特の悲劇があってさ、それを端的に言うと、ジェスチャーっていうのは、人間の身体について扱っているかのようでありながら、ジェスチャー分析を克明にやればやるほど、心身二元論を増強するような方向に行ってしまうと。これはつまり、人間の心が表象する何かをジェスチャーが表すという、そういう図式だよね。この図式から、なかなか逃れられない。こないだ読み終えたアダム・ケンドンの本なんかは、確かに実に感心するほど、微細で精密なんだけど、やっぱり、そういう精密化が追求するのは、ジェスチャーの意味論なんだよなぁ。
その意味論ってたとえば、彼の主なフィールドはイタリアのナポリで、特にそこの人たちは昔からものすごくジェスチャーが豊かなことで有名なんだけど、手のひらを下に向けたジェスチャーと、手のひらを上に向けたジェスチャーとがまったく意味が違うと。しかも下に向けた手を横に払うことと、下に向けた手を静止させていることでは意味が違うし、上に向けた手を静止させていることと、上に向けた手を相手の方へ差しのべるようにすることと、両手を上に向けて広げること、それぞれ、微細に意味が違うと。でもこれってやっぱり、身体が心に従属しているということをひたすら解明するような思考法ではないかな、と。
で、一番原点に遡っていえば、メルロ=ポンティは、言語というのは、それ自体が表情を帯びた身ぶりだ、というふうに言い続けていたわけだけど、今言ったようなジェスチャー研究は、やっぱり言語チャンネルと、身体チャンネルを最初から区別している。そのチャンネルの間の相互関係を精密に解き明かす、というのは、そもそも出発点が違うんじゃないかと。私は今、丸ごと身体が過去の出来事に投入されている、という視点で、ジェスチャーを分析する方向性を考えている。でもそれはね、いろんなジェスチャーの分類のなかで、あるミミック、演技的な模倣かな、それに結局焦点を当てることになると思うんだけどね。彼らが過去の出来事を語る時にね、この身体の周りの空間というのが、そのまま、まぁ言うたら、バーチャルな環境になって、そのなかで自分が行為している。それがそのまま彼らの身ぶりとして現れているという。まぁ端的に言うとさ、向こうのほうで、人間なんだか何だかわからないものがうごめいていた。で、あれは人間か、と言ってね、こうやって身を乗り出して、「おーい、あんたは人間か?」って恐る恐る聞いたら、「おー、おれは人間だぁ」と答えた。そういう一連のエピソードのなかで、まさにその通りに身を乗り出したり、普通の言葉でいえば、演技しているわけなんだけど。だけどそういう演技的模倣ということを徹底的に分析すれば、言語それ自体が表情を帯びた身ぶりだというメルロ=ポンティの考え方にかなり近づいていけるんじゃないかなぁと。


院生
それでは最後に、人類学の魅力であるとか、京大人類学の強みや特徴はどういうものでしょうか?

発見の積み重なり

菅原
 あんまり傲慢なことを書くと、同僚たちから恨まれるんじゃないかって気もするんだけど、私はねぇ、正直言って、人類学以外にまともな人文学はないと思っているんだ、実は。ていうか、人文学やるんだったら人類学しかないんだよ、という暴言を吐きたいくらい。だから人類学の魅力、という問題ではなくて、私のお弟子さんの佐藤知久さん(京都文教大学)のことばを借りれば、人類学こそがもっとも野心的な認識の方法なんだよ。言い過ぎかな(笑)。つまり、この学問だけが、西欧近代が積み上げてきた思考を根源的に批判し、相対化することができる。人類学の魅力ねぇ……。
まず一つは、あれだと思うね、誰でもいうことだけど、日本の近代の悲劇で、西洋のものまねをずっとしてきて、今でもそれが続いていると思う。私はそれをつねづね「知の植民地状況」って呼んでるけどね。でも人類学はフィールドワークに原点を置いているから、少なくとも民族誌記述というレベルで言ったら、ユニークなフィールドに出会えば、それがそのまま自分の認識のオリジナリティにつながる。これは他の学問にはないことだね。だけど、日本の人類学の弱みは、長期のきわめて精密なフィールドワーク、あるいは民族誌記述は、たくさんの人が積み重ねているんだけど、やっぱり、オリジナリティのある理論を構築する力がとても弱い。それこそ人類学の理論という側面で言ったら、西洋の模倣から未だかつて抜け出せていない。でも、他の人文学に比べれば、フィールドワークという原点に回帰しさえすれば、模倣から抜け出すチャンスは他の学問より圧倒的に多い。
そして、もう一つ、これは、カラハリに何十年と通い続けた人間が言うんだから、ちょっとは信用してもいいんじゃないかと思うんだけど、フィールドワークというのは、時間をかけることと見事に比例した形で発見が積み重なる。これはどんな学問もそうですよと言われるかもしれないけど、人類学ほどそれが顕著な学問はないのではないだろうか。繰り返しフィールドへ行き続けるということが、そのまま豊かな発見のチャンスを増大するというのは、とてもわかりやすいことなんだよ。それを別の形で言うとさぁ、やっぱり、人間のありのままの生っていうのは、汲みつくせない深みを持っているということと同義だと思うのね。汲みつくせないからこそ、汲んでも汲んでもなくならない、というのがやっぱり大きな喜びだね。
『語る身体の民族誌』という本の最初に書いてあるけど、二郎さんとカラハリでしゃべっていて、なぜかその年に私が日本から持ち込んだテントの商品名が変で「エウレカ!」て書いてあったんだよね。最初それを、ボーっと見ていて、何のことかわからなかったんだけど、ふと、「エウレカ」ってあのアルキメデスが、風呂にざぶんと浸かって、王冠の体積だか何だかを求める方法がわかって、「エウレカ!」と叫んで、風呂場から裸から飛び出したというやつか。つまりギリシャ語で「わかった!」という意味ね。それだと気づいて私は、「やぁ、こういうフィールドワークでも、わかった!と叫んで走り出すような瞬間があったらいいのになぁ」とつぶやいたら、二郎さんが、「そんなことをしたら、ブッシュマンの人たちが、『おー、スガワラはついに暑さで気が狂ったか』と言うでしょうなぁ」て言って、大笑いをしたんだけど。だからフィールドワークってのはね、「わかった!」て叫ぶような劇的な瞬間ていうのはなかなかないもんだよね。でもなんか、じんわりと、わかってなかったことがわかるっていう、プロセスは積み重なるよね。

京大人類学の特徴

菅原
昔はなぁ、はっきりしてたんだけどなぁ。最近はあんまり鮮明化されてないと思うぞ。いわゆる伊谷スクールの影響がとても強かった頃は、いわゆる人文系の文化人類学と理系の生態人類学の溝が京大は一番統合された形で続いてきている。もっとよく言われる言い方だと、いわゆる理系と文系という垣根が少ない、文理融合というのが一番進んでいる。あと事実として、フィールドワーク、特に若い世代のフィールドワークのアクティビティが一番高い。日本のどこの大学よりも高いんじゃないだろうか。実際問題として、わが人環で博士号を取った人の本が続々と出版されているやろ。向こうの私の研究室に行けばズラーッと並べてあるけど。あんなこと多分、他の大学では信じられないような成果だと思う。でも、あんまりHPに書くと、邪眼とか邪視とか妖術とか邪術とか、かかってきて怖いから(笑)。
昔はね、肉体派の京大、文献派の東大とか、わかりやすい二項対立があったんだけど、最近はなんかなぁ、肉体派とかいうと、あいつらアホだから本を読めないんだとか思われるのも心外だから(笑)、あんまりその二項対立を反復する気はないんだけど。でも、私の『身体の人類学』って処女作があるんだけど、それに鷲田清一さんがすごくいい書評をつけてくれた時に、そのことを書いてあったな。「昔から、京大の人類学は肉体派と言われてきたけれど、これを読むと、まことにその雰囲気があふれていて、すぐに飲み会でおまえちょっとおかしいんちゃうか、とかいう罵声が飛びかって、すぐに殴り合いになるという、そこらへんの雰囲気がとてもよく出ていて、大変愉快だ」みたいなことを、鷲田さんは、その肉体派っていう感覚をすごく肯定的に書いてくれたという印象だったな。
さぁ、そろそろビールでも飲みに行くか。ブッシュマンに出会うまでが長すぎた。


注1:実際、2011年と2012年は調査を休んだ。2013年8月に再訪する予定。
注2:現在(2013年2月)、文部科学省の科学研究費をうけて研究プロジェクト(「相互行為としての身ぶりと手話の通文化的探究(2012年4月採択)」)に取り組んでいる。インタビューは2011年8月におこなわれたため、この時点においてプロジェクトを開始していない。なおこの成果の一端は、「過去の出来事への身体の投入-グイの身ぶり論序説」というタイトルで、菅原編『身体化の人類学-認知・記憶・言語・他者』(世界思想社、2013年4月刊)に所収されている。