田中第1回文化人類学との出会い

2011年文化人類学分野ホームページ・リニューアルを記念して、院生が田中先生にインタビューする企画が実現しました。ふたりの院生が田中先生の研究室にお邪魔してかなり長い時間にわたってお話を聞かせていただきました。その全容をこれから数回にわたってみなさんにお届けします。第1回目は「文化人類学との出会い」というタイトルでお届けします。お話のなかでは、ジンカン文化人類学分野、博士論文執筆の中核的な役割を果たしているwriting upセミナーの原形を伺い知ることができたり、留学中の友人として現在社会人類学者として精力的に研究活動されている方のお名前が多数でてきます(脚注に主な成果をまとめていますので、そちらもご覧ください)
*このインタビュー記事は、書きおこし原稿をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。

院生
でははじめに、先生が人類学に興味を持たれたきっかけや、学生時代のお話を聞かせてください。

「フィールドで学べ!フィールドで自己を知れ!」
田中
 高校時代にまずフロイトの夢分析や精神分析に興味を持ちました。内容にも関心をもちましたが、「教育分析」という方法に魅かれたのです。精神分析家になるためには、自身が患者のように分析対象になるという過程を経なければならなければなりません。これを「教育分析」と言います。たんなる学習ではなく、一種の徒弟制であり、また通過儀礼でもある――講義や読書からは学ぶことのできない自己そのものの理解への欲求がそこに認められます。自分のことを十分に知らなければ他人を理解したり、治療したりすることはできないでしょう。このため1973年に東北大の文学部に入学したときは、心理学を専攻しようと思っていました。精神分析というのは今でもそうですが当時も心理学においては決してメジャーな学問とは言えなかったし、本格的に勉強しようと思えば医学部に行く必要がありました。どうしようかと悩んでいると、文化人類学という学問もフィールドワークを重視しているということに気づくようになりました。そもそもフロイトの著作の中には『トーテムとタブー』など文化人類学とかかわりの深い書物が含まれていたこともあり、精神分析から文化人類学への移行はそれほど困難ではなかったのです。いまフェティシズムやトラウマなどに関心があるのは、高校時代に出会った精神分析の影響大ですね。

院生
フィールドワークという方法が教育分析となぜ類似していると思われたのですか?

田中
 フィールドワークという方法が教育分析となぜ類似していると思ったのか。それは他人と交わりつつ自己を学ぶというところです。フィールドワークでは一人っきりで、分析をしてくれる教師もいません。教師のようなプロがすぐ横にいないだけ、フィールドワークのほうがその「放置ぶり」は徹底しています。どちらも自己について学ぶことについて徹底していますが、精神分析のほうがもうすこし責任のある形で教育に関わっているとも言えます。文化人類学ではフィールドに出発した時点で、教師と学生との関係も一時的に断絶します。まあ、実際はどうであれ、「フィールドで学べ!フィールドで自己を知れ!」ということばに魅かれたのです。日本語の本で文化人類学についてかなり初期に読んだのは山口昌男の『アフリカの神話的世界』でした。ここでも精神分析学的アプローチに1章割かれていて、「移行」がスムーズになされたと思います。

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院生
でも、先生は修士まで宗教学を専攻されていたんですよね。東北大学ではどんな勉強をされていたんですか?

 

人類学と宗教学
田中
 さて、人類学をやりたいと思ったのはそれでよかったのですが、当時、人類学科があったのは東大、都立大、南山大のみで、在籍していた東北大学には文化人類学科はなかった。それで宗教学を専攻しました。ここには東北大にいらした唯一の文化人類学者であった杉山晃一先生が併任という形でかかわっておられました。
宗教学科では理論を中心的に学び、卒論は英国の社会人類学者であるエヴァンズ=プリチャード、修論はフランスの社会人類学者で、エヴァンズ=プリチャードとも近しいルイ・デュモンについて書きました。卒論でエヴァンズ=プリチャードを選んだのは、先輩の一人がレイモンド・ファースについて卒論を書いていたからです。宗教学科にいましたが、卒論も修論も人類学に関するものでした。現象学とか宗教哲学は、大学院の試験を受けるために勉強しましたが、ほとんど身にはついた気がしません。

院生
インドやスリランカに関心をもたれたのも、デュモンの影響でしょうか?

田中
 被差別のことが気になってインドはもともとやりたかったのですが、修論にデュモンを選んだのは学部の3年生のときにルイ・デュモンに詳しい山折哲雄先生が助教授として着任されたことも大きかった。かれはデュモンがデイヴィッド・ポーコックとはじめたContributions to Indian Sociologyを全冊もっていたのです。たぶん日本で初めてデュモンの浄不浄論を紹介したのは彼でしょう。デュモンの主著であるHomo Hierarchicusの英語訳が出ていましたが、誤訳が多いと思い、オリジナルのフランス語版にも取り組み、英語訳が出ていなかったかれの民族誌Une Sous-Caste de l’Inde du Sudも頑張って訳しました。使えたのは最後のところだけでしたけどね、ちなみにデュモンの主著の翻訳出版(注1)を勧めてくれたのも山折先生でした。

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院生
宗教学でもフィールドワークを行う研究をしている方もいらっしゃいますが、先生もそのような調査に参加されることはありましたか?

 

調査実習と漬け物
田中
 宗教学科の話をしますね。ここは哲学系とフィールドワークを重視する実証系の二本立てでしたが、フィールドワークは研究の主要な作業とは考えられていませんでした。フィールドワークで資料をたくさん集めていてもダメだという立場が強く、必ずしも調査への理解があったわけではなかったですね。ただ、大学院ではよく実習という形で皆調査に出かけていました。しかし、どういうわけか私自身はフィールドワークに関心はあったけど、合宿形式の実習には学部と大学院を通じて一度しか参加していません。日本では調査経験はないのです。
M1のときに福島に行ったくらいですね。これ一回きりで、二泊三日程度の短いものでしたが、いくつか記憶に残っていることがあります。記憶力の弱いというか、ほとんどない私には珍しいことです。院生たちがペアになり、調査村の農家を2,3軒手分けして訪問し信仰について話を聞くんだけど、午後伺うと、大量の漬け物が出てくる。タクワン、なら漬け系の漬け物は大嫌い。そういう経験もあって農村での調査は将来決してやらないことにしました。それとこの村の人たちの姓が奇妙だったので調べると、かくれキリシタンの村だということもわかった。こういうのは予想外のことだったので、ぞくぞくしました。
調査は大学院生が二人一組になって行ったんですが、いま阪大にいる川村(邦光)さんは調査をさぼって、もうひとりの院生とアケビを取っていた。こういうのもありだな、と思いました。

院生
先生はどちらかというと人類学やフィールドワークに関心があり宗教学科に進学されたようですが、もともと宗教への興味もあったのですか?

 

「カミサン」へ通った記憶
田中
 宗教とまったく縁がなかったわけではありません。いまはそうでもないですが、小さいころから身体が弱くて2、3歳の頃からずっと、母と「カミサン」に通って漢方を処方してもらっていた。漢方薬を作るとき、カミサンは憑依状態で薬の配合をするんだけど、その光景は今でも鮮明に覚えていますね。ほかのところは知りませんが、祈るだけでなく漢方を処方してくれていたという点で良心的だったと思います。処方されたものには、例えばモグラの燻製なんかもあった。小さな木箱に入っていたからたぶん高かったのではないでしょうか。
モグラは一回きりでしたが、セミの抜殻なんかは煎じてずっと飲んでいたんです。私は4歳の時に和歌山から東京の世田谷区桜新町に引っ越し、そのあと富山市に2年いて、和歌山に戻ったのは小学校5年の時です。その間正月に和歌山に帰るとかならずカミサンのところに行く。わたしは子供だったので、ただ座っているだけでしたが、母はいろいろと相談していたのだと思います。いやだと思ったことはないですね。漢方薬はずっと飲んでいましたから母が送ってもらっていたのでしょう。せんじ薬のおかげでしょうか、中学に入学してからは1度も学校を休まないようになるくらい身体が丈夫になった。中学では一日休みましたが、これはずる休みでした。そういう経験があったので、シャーマン系の宗教実践は身近な存在だったと言えます。東北大の宗教学もイタコやゴミソなど東北の民間職能者についての研究蓄積がありますが、わたしは結局手を出しませんでした。でもイタコで有名な下北半島には何度か行きましたね。

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院生
博士課程から、先生はイギリスへ留学されたのでしたね。

 

Jonathan Parry先生との出会い
田中

はい。フィールドワークへの憧れがあったから、博士課程は人類学のある大学院へ進学したいと思っていた。阪大の奥先生が非常勤で仙台にいらしていたので編入の可能性なども聞きに行ったことがあります。当時、すでに人類学科があった京大や東大の学生はほとんど留学していませんけど、東北大で人類学をするには限界があったし、杉山晃一先生をはじめ周りの勧めもあって、大学間の協定が結ばれていたロンドン大学のLSE(London School of Economics and Political Sciene 注2)への留学を決めました。身分は研究生、あちらではResearch Fee Studentという名前でした。
渡英してすぐ、まず北インドの専門家で、ジョナサン・パリー(Jonathan Parry)先生に会いに行きました。研究生として指導してもらうためにね。かれの本(Caste and Kinship in Kangra 注3)は修論を書いているときにすでに読んでいました。どちらかというとオーソドックスな親族とカーストの研究でしたから、LSEへの留学が決まると、留学中の一年は親族やらカーストの本をたくさん読まされることになるのでは、と覚悟していました。しかし、彼自身はベナレスでの調査を始めていて、関心がヒンドゥー教に大きくうつっていました。これはうれしい誤算でした。1月から12月の間は、2週間に1度彼の研究室で会って文献のレビューをしたものをチェックしてもらうということを続けた。これを個人指導supervisionといいます。シヴァ神の神話分析とか、献身(バクティ)の意味とか、宗教ばっかりでしたね。5,6回レビューのレポートを出したと思います。当時かれとモーリス・ブロックは死についてのセミナーを終え、その論文集Death and Regeneration of Life(注4)を編集中でした。

院生
研究生として勉強されてから、どのくらいの期間を経て博士課程に入学されたのですか?

田中

私は1980年の夏に渡英してパリー先生からインド研究の指導を受けていたのですけど、途中で彼の薦めもあってM.Philという名の修士課程に移ることになりました(注5)。将来博士課程に移ることを前提にM.Phil課程に登録することが1981年の1月に許されました。しかし、M.Scの学生と同じようにM.Phil Qualifying Exam(M.Philで受ける資格試験)を6月に受けるようにと言われました。いま日本では博士課程のある大学では修論を廃止して代わりに試験を実施すべきだという動きがありますね。この試験の英語訳がM.Phil Qualifying Exam となっていて懐かしくなりました。この試験で合格すれば、はれて将来博士課程に移れるということです。落ちたらM.Philで出てください、ということになります。
そういうわけで、1981年の1月から3月までは政治・経済、親族理論なんかの試験勉強をしました。パリー先生がサバティカルになったので、代わりにChris Fullerが私の指導教員になりました。かれは南インドの専門家でしたが、インド関係の指導は当時受けず、試験対策のためのレポートを書いて読んでもらっていた。とにかく6月にはM.Phil Qualifying Examに無事に合格した。それまで専門的に勉強していたのは宗教だけでしたが、いろんなことに関心があったので政治や経済の勉強も苦にならなかったですね。

院生
試験勉強はどのようにされていたのですか?

 

「月見るなんて久しぶりだね」
田中

試験の内容はM.Scの学生が受けるのと全く同じです。ですからわたしはすでにM.Philでしたが、M.Scの学生と一緒に講義やゼミに出ていました。過去問は見ることができますが、講義だけ聞いていても答えられない試験ばかりなので、本や論文はオリジナルにあたって読まないといけない。大量に読まなければならず、同じ境遇の学生たちの連帯感も強まります。あるとき夜道を歩いていたら、ペルーから留学していた学生(Fernando Santos-Granero 注6)が空を仰いで、「月見るなんて久しぶりだね」と吉田拓郎のようなことを口走りました。そこにいた5人くらいの学生がみんなおおきくうなずいていたのが印象に残っています。この1年間のコースは徹底的な詰め込み教育です。1年間で英国人類学の全てを学べ、この経験をしてはじめて英国人類学の入り口に立てるというメッセージが強く感じられるコースです。博士号の取得が大きな目標であるとしても、M.A.やM.Scのほうが通過儀礼としてはずっときつくてその分、仲間との絆も深まるというのが実感です。

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院生
M.Phil Qualifying Examに合格されたあとは、どのような指導を受けられていたのですか?

 

Writing Up SeminarとLSEの友人たち
田中
少し説明します。まず調査地について勉強する。これは日本と同じです。1年くらいしたらリサーチプロポーザルというのを書いて、フィールドに行く。学生たちがフィールドワークからもどって博士論文を書き始めると、Writing Up Seminarというゼミに参加します。わたしは1年半調査地にいましたから平均だと思いますが、働いていたり、長く調査をしていたりすると、ずっと先輩にあたるような学生と同じゼミで一緒になるということになります。これは極端な例ですが、すでにマルクス主義フェミニスト人類学者として注目されていたOlivia Harris(注7)も発表していました。Writing Up Seminarは毎回だれかの博論の数章が事前に配布され、それについて議論するというものできわめて有益でした。詰め込みのM.Scコースもこの執筆支援ゼミもたいへんよくできていると私は思いますが、なぜかフィールドワークを支援するような仕組みは弱かったですね。学部で実習とかも想定されていないようでした。
これは、フィールドワークはできて当然。なんなくできる人だけにしか開かれていない方法だというふうに、きわめてエリート主義的なものとして位置づけられていたからかもしれません。カメラの使い方さえ知らない学生でも、フィールドワークを失敗するというようなことは考えられていなかったのです。みんな初めての外国(フランスやオランダくらいは行ったことがあるかもしれませんが)で、しかも当時はフィールドとホームを頻繁に往復することなど考えられなかった、そんな状況でフィールドに行っちゃうわけです。で、大病を患ったり、フィールドノートをなくしたり、男女関係に煩わされたりしながらも、数年後には立派な人類学者としてゼミ教室だったセリグマン・ライブラリーに突如現れ、立派な報告をする。フィールドワークをしたかどうか。学生たちの間にはその経験の有無によって大きな溝があるのです。フィールドワークが終わればもう教員にもcolleagueとして迎えられます。ジョニーとかクリスとかモーリスとか呼ぶにしても、フィールドワークが終わってからだとずっと後ろめたさがなくなります。

院生
『50周年誌(注8)』の文章から察するに、同時期にLSEで学んだ研究者たちの動向をかなり意識しているのではないかと思ったのですが、同期生の方たちは現在どのようなところで研究活動を続けられているのですか?

田中

幸運なことに、わたしが親しかった人たちの多くは大学に就職しています。たとえばセント・アンドリュー大学にはChristina Toren(注9)とPeter Gow(注10)がいますし、ブルネイ大学にはジェルの弟子で彼の論文集を編集したEric Hirsch(注11)がいます。マンチェスター大にはあまり親しくはなかったけどPenny Harvey(注12)、ロンドン大学のユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンUCLには、マテリアル・カルチャーを専門にするSusanne Kuechler(注13)や、視覚芸術に関心があるChirs Pinney(注14)がいますね。50周年の冊子『人類学の誘惑』に私が書いていたのはかれらが編集に携わっていたJournal of Material Cultureのことでしょう。同じくロンドン大学のGoldsmiths にはSophie Dayがいます。彼女はもともとラダックのシャーマニズムの研究をしていましたが、最近はセックスワーカーのライフ・ストーリーを扱ったOn the Game(注15)を出して注目されています。私の関心といま一番近いかもしれません。他にはエジンバラ大学にはrelatednessで有名になったマレーシア研究者のJanet Carsten(注16)がいます。彼女の夫はLSE出身ではないですが、Jonathan Spencer(注17)といってスリランカの研究者です。かれとはスリランカでの調査を終えてから、スリランカ版のWriting Up Seminarでよく会いました。ランカスター大で宗教学を教えている川並宏子さん(注18)もほぼ同じころLSEに留学していました。いま思い出せるのはこのくらいですが、まだまだいるかもしれません。

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院生
寮での学生生活や、その他に交友関係などのエピソードがあれば教えてください。

田中

わたしはずっと大学寮にいました。結婚して長期調査に行く1982年までの話に限ると、ほとんど相部屋にいたと思います。最初香港の医学生と相部屋だったが上手くいかなかった。そのあと、わたしの研究のこともありインド人をルームメイトにして欲しいと頼むと、スリランカのタミル人がルームメイトになった。彼とは上手くいって、タミル語を教えてもらったり、ロンドンのタミル系ヒンドゥー寺院などに連れてもらったりしました。かれは理系でRAのようなことをしていましたから大変規則正しい生活でした。週末には同じスリランカ出身のタミル人たちが何人も私たちの部屋に集まり食事を一緒に作ったりして楽しんでいました。わたしは平日も彼のつくるカレーを食べさせてもらっていたと思います。最初は自分も作っていましたが、パンとポテトばかり食べていたので、「日本人はコメを食わないのか」と真顔で質問されたのを覚えています。でも、うまくいっていたとおもっていたのは私だけかもしれません。かれは重いうつ病になってバーミンガムにいる姉のところに一時引っ越ししてしまったからです。
寮ではタミル系のひとたち以外とも、よく一緒に遊んでいました。みんなでよくいろんなところに出かけました。夜のコモンルームにはいつもイラク人の医者たちが何人もたむろしていて彼らとも仲良くなりました。イラン・イラク戦争が始まった直後だったこともあり、夫婦で来ていたイラン人は寮では肩身が狭そうでした。
ほかには指導教員だったパリー先生が自宅のクリスマス・ランチや食事などにことあるごとによく招待してくれました。やはり一番お世話になったと思います。LSE時代の恩師です。そうこうしているうちに82年の春に結婚し、一時帰国。
こうして試験に合格しておよそ一年経た1982年の夏からいよいよ夫婦でスリランカの漁村に長期調査に行くことになりました。

第2回へ続く

 

注1:『ホモ・ヒエラルキクス』田中雅一・渡辺公三訳、みすず書房、2001年.
注2:London School of Economics and Political Science, http://www2.lse.ac.uk/aboutLSE/aboutHome.aspx
注3:Jonathan Parry 1979 Caste and Kinship in Kangra Routledge & Kegan Paul Books.
注4:Maurice Bloch and Jonathan Parry 1982 Death and Regeneration of Life Cambridge University Press.
注5:M.Philは一般に日本の修士の英語版とみなされている。M.Philのほかに英国の大学にはM.A.(文系)あるいはM.Sc(理系。LSEは経済学部で人類学修士はM.Sc)があり、両者は厳密に区別されている。文化人類学を欧米で勉強したことのない学生たち、あるいは文化人類学を学部で専攻したことのない欧米の学生たちは、博士課程に進む前にM.A.やM.Scと呼ばれる一年間の修士コースに入ることを要求される。そこで学部3年分(英国は4年ではなく3年間)の内容を1年間で勉強し、6月に試験を受けそのあと簡単なエッセー(文献レビュー中心)を書けば学位を取得できる。これにたいしM.Philは2年間のコースで、(どちらかというと)自身のオリジナルな調査(ただし、人類学であってもフィールドワークが求められてはいません)に基づく修論が評価の対象になる。日本と違ってM.Philコースを終えてから進学するわけではなく、ほとんどは途中でPh.Dという博士課程へ移動する(博士課程の入り口がM.Philという名前にすぎないというほうが正確かもしれない)。M.Philに進学した人はほぼ自動的に1年後には最低3年間のPh.D(博士課程)に移る。移ると同時にそれまでM.Philの学生として登録していた期間もPh.Dに数えられる。移らないのは、2年間で学位を必要としているような留学生、政府派遣や会社派遣の学生。現在、ブルネイの外務大臣をつとめているLim Jock Sengさんも2年で結果を出さなければならなかったためM.Philの学位だけ取得して帰国した。
注6:Scientific staff, Smithsonian Tropical Research Institute.主な調査地はアマゾン。最近の編著:2009The Occult Life of Things: Native Amazonian Theories of Materiality and Personhood Tucson: The University of Arizona Press.
注7:1948-2009. 主な著書:2000 To Make the Earth Bear Fruit: Ethnographic Essays on Fertility, Work and Gender in Highland Bolivia Univ. of London.
注8:谷泰、田中雅一編 2010『人類学の誘惑―京都大学人文科学研究所社会人類学部門の五〇年』京都大学人文科学研究所.
注9:主な調査地はフィジーやオセアニア。主な著書:1990Making Sense of Hierarchy: Cognition as social process in Fiji London School of Economics, Monographs in Social Anthropology 61, London, The Athlone Press., 1999Mind, Materiality and History: Explorations in Fijian Ethnography London: Routledge.
注10:主な調査地はアマゾン。主な著書:1991Of Mixed Blood – Kinship and History in Peruvian Amazonia Oxford University Pres., 2001 An Amazonian Myth and Its History Oxford University Press, 338p.
注11:主な調査地はパプアニューギニア。主な編著:Alfred Gell 1999 The Art of Anthropology: Essays and DiagramsAthlone Press (responsible editor OUP and Eric Hirsch)., 1995 The Anthropology of Landscape Perspectives on Place and Space (Co-edited with Michael O’Hanlon) Oxford University Press.
注12:主な調査地はペルー。主な編著:1994 Sex and Violence: Issues in Representation and Experience Routledge(Co-edited with Peter Gow)., 2010 Technologized Images, Technologized Bodies (Co-edited with Jeannette Edwards and Peter Wade) Oxford:Berghahn Books., 2007 Anthropology and Science: Epistemologies in Practice (Co-edited with Jeannette Edwards and Peter Wade) Oxford:Berghahn Books.
注13:主な調査地域はメラネシア。主な著書:2002 Malanggan: Art, Memory and Sacrifice Oxford: Berg., 2009 Tvaivai: The Social Fabric of the Cook Islands London: British Museum Press; with Andrea Eimke.
注14:主な調査地域はインド。主な編著:2008 The Coming of Photography in IndiaBritish Museum, 2001 Beyond Aesthetics: Art and the Technologies of Enchantment (Co-edited with Nicholas Thomas) Berg, Oxford/New York: New York University Press.
注15:2007 On the Game: Women and Sex Work London: Pluto Press.
注16:主な編著書:2007 Ghosts of Memory: Essays on Remembrance and Relatedness Blackwell., 2004 After Kinship. Cambridge University Press.
注17:2011 Conflict and Peacebuilding in Sri Lanka: Caught in the Peace Trap? London: Routledge. (co-edited with Jonathan Goodhand and Benedikt Korf)
注18:主な調査地域はミャンマー、タイ、バングラディシュほか東南アジア諸国。主な論文:2009 Charisma, power(s), and the arahant ideal in Burmese -Myanmar Buddhism Asian Ethnology 68 (2): 211-37., 2007「仏教」『ジェンダーで学ぶ宗教学』田中雅一・川橋範子編、京都:世界思想社.