田中第2回はじめての長期フィールド調査

第2回目は「初めての長期フィールド調査」というタイトルでお届けします。今回は、長期のフィールドワークをすすめていく経緯をたっぷりお話いただきました。私たちは、研究成果を発表できいたり活字で読むことはできても、フィールドワーク中の生活や経験についてじっくりお話をうかがう機会をもつことはなかなかありません。そういう意味においても、今回のインタビューは非常に貴重で興味深い内容です。
*このインタビュー記事は、書きおこし原稿をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。

(インタビュー第1回へ)

院生
 今回はいよいよ、先生が初めて長期フィールド調査へ出掛けられた時のお話を伺いたいと思います。まずスリランカを選んだ理由を教えてください。

 

フィールドへむかう準備
田中
 第1回のインタビューでもお話ししましたが、調査はインドをやろうと留学前から考えていました。東北大学の印度学と宗教学は歴史的に非常に近しい関係にありましたし、学部の時に助教授に就任された山折(哲雄)先生も、もともと印度学の出身で『マハーバーラタ』における葬送儀礼やカースト論などについての論文をお書きになっていました。ウェーバーの『アジア宗教の基本的性格』やK.M.カパディアの『インドン婚姻と家族』を訳されています。しかし、個人的な動機としては、カースト差別について考えてみたかったという気持ちが強かったです。
1980年代のインド研究はまだまだ文献中心で、いまのようにフィールドワークが長期でできるような状態ではありませんでした。しかし、数少ない研究のほとんどは北インドにおける農村部の調査に基づくものだったこともあり、やるとしたら南インドの海岸部をやろうと思っていました。

院生
 最初はインドでフィールドワークをしようと思われていたのですか?

田中
 はい、1980年に留学し、博士課程への進学も正式に決まった1981年夏にいったん帰国します。そのあとまたロンドンに戻るわけですが、途中でインドにストップ・オーヴァーして1か月ほど南インドに滞在します。ちょうど神戸のポートアイランドができたころで、そこでミス・インターナショナルが開催された直後でした。機内ではこのミスコンにインド代表で参加した女性が隣の席だったという幸運に恵まれました。一人で日本に来ていたのに驚きました。その彼女がまだ無名に近かったMeenakshi Sheshadri(注1)だったのです。17、8歳。学生でしたし、これから女優でやっていくのかもはっきりしない様子でした。彼女はタミル人(バラモン)でした。これから南インドに行くというと、タミル語をいくつか教えてくれました。タミル語に飽きたのか、眠いから肩を貸してほしいと言われ、そのまま眠ってしまいました。その後彼女はHeroなどのヒット作に恵まれボリウッドのセレブの仲間入りをします。賞もとっているはずです。ボンベイに着くと彼女の家族が待っていて、私を国内線のターミナルまで送ってくれました。
 私はボンベイからマドラス経由でタミルナードゥ州のティルチラパッリに向かいます。そこで調査をされていた原(忠彦)先生(注2)に会うためでした。ホテル・アリストにチェックイン。毎晩先生の部屋で、南アジア研究(者)のいろはを教えてもらいました。すでに調査村に入っていた水嶋(司)さん(注3)のところも訪問しました。ティルチを後にしてから、タミルナードゥ州を中心に南インドの海岸部をめぐりますが、どこも立派な教会が建っていて、めざすヒンドゥー教徒の漁村を見つけることはできませんでした。このことをロンドンに着いてから指導教員のジョニー(ジョナサン・パリー)に報告しました。すると、かれの親友のジョック・スティラット(注4)を紹介されました。

院生
 ジョック・スティラットはスリランカ研究者だったのですね?

田中
 はい、ジョックもジョニーもE・リーチ(注5)の学生です。私たちはあまりリーチが南アジア研究者だと意識することはないですが、カーストについての論文集(注6)を編集しています。スリランカ出身のS.J.タンバイア(注7)とともに、ケンブリッジで多くの南アジア研究者を育てています。1970年代のはじめだと思いますが、フィールドワークに必要だろうと言われ、リーチからトヨタの車をもらったそうです。

院生
 それでスリランカになったのですか?

田中
 すでにジョニーから私の調査地について相談されていたのでしょう。ジョックが、スリランカのヒンドゥー漁村を紹介してくれるということになり、サセックス大学のかれの研究室を訪ねました。そこで話を伺って即決で決めました。迷いはありませんでした。調査地となる村についてのフィールドノートもいただきました。フィールドノートと言っても、タイプできちんと清書されているものです。

院生
 いよいよ出発ですね?

田中
 通常博士課程に入って最初の一年はリサーチプロポーザルの執筆に集中するのですが、私はすこし早めの1982年春にスリランカに行くことになります。そのまま調査というのではなく、このときは一時帰国の途遊に立ち寄り、結婚してからすぐにスリランカにUターンという段取りでした。身の回りの品や書籍は寮のストア・ルームに入れて、(いつ帰ってくるのか決めてはいませんでしたが)スリランカに向かいました。
ロンドンを離れる直前に、ジョニーのところで食事をして、フィールドノートなどを見せてもらいました。なんども食事には招かれていましたが、書斎に入ったのはその時が初めてでしたね。そのとき言われたのが、6週間に一度フィールドノートの控えを送ってくるようにと言うことでした。ノートを紛失しないようにカーボンコピーを取り、それを教員に送る。ただ、私の場合ノートは日本語だし、タイプライターで清書をするわけではないので、一度だけレポートらしいものを送っただけでやめてしまいました。ノートのカーボンコピーも数回やってやめました。確かめたことはないですが、英国人の院生たちは、ノートをタイプで清書するときにコピーをとり、それを指導教員に送っていたのかもしれません。

田中
 スリランカ出身のルームメートがコロンボのペッター地区の布屋さんを紹介してくれていました。この布屋さんが空港に迎えに来てくれていて、そのままかれのお店に投宿。1階がお店、2階は店員が寝泊まりできるようになっていました。昼食に最初に頂いたのがドーサ(トーサイ)というパンケーキでしたが、その付け合せについてきたオレンジ色のペーストがものすごく辛い。ニンジンサラダと思っていたら、ココヤシの果肉のすりおろしにチリをまぶしたものだったのです。このお店は、1983年7月の暴動で内部が焼き払われてしまいます。店で雇っていた少年が一人殺されたとも聞きました。このお店で数日暮らしてから、私を引き受けてくれたペラデニヤ大学(注8)に挨拶に行き、そのあといよいよ村に向かいます。滞在場所を村で会った若者にお願いし、いったん帰国します。そしてあわただしく結婚式を挙げます。すぐにまたスリランカに向かうつもりでしたが、ヴィザの発給が遅れたりして、実際に調査を始めたのは1982年6月のことでした。

村の井戸で水をくむ女性たち

院生
 奥様の著書『消されたポットゥ スリランカ少数民族の女たち』(注9)を読むと、電気も水道もない、水に虫が浮いていたりするなど、漁村の生活は最初とても大変そうな様子でしたが…

 

フィールドでの生活と民族紛争
田中
 妻は、デング熱やマラリアにかかり、また蚊に咬まれたあとがひどく化膿したりしてかなり苦しんでいましたが、私自身は特に生活が大変だとは思いませんでした。食べ物も問題なかったし、すんなり現地での生活に入り込めたと思います。フィールドに対して失望する事もなかったですしね。私自身フィールドでひどい病気になったことはなかったと思います。耳が少し膿んでお医者さんに行きました。それから夕暮れ時に牛の群れとぶつかってバイクが横転したくらいでしょう。幸いかすり傷ですみました。
調査地は、村と言っても、当時で5500人ほど住んでいましたし、医者が常駐する簡単な病院もあった。バスで1時間乗ると、この地域の中心地となる町に出ます。さらに2時間ちょっとでコロンボに着きます。魚は毎日コロンボの魚市場へと出荷されていました。通常人類学者が想定している調査地に比べると、コロンボのような都市と密接に関係していたと言えます。

院生
 フィールドでの印象的なエピソードを聞かせていただけますか?

田中
 これはカルチャー・ショックの例として講義でもよく取り上げますが、スリランカでの調査も1年が過ぎ、村の外での調査も始めようとしていた頃のことです。ある村を訪ねて、そこのヒンドゥー寺院で憑依をする司祭に会いました。かれの家を訪ねるのですが、そこで飼っていた犬が土間に排泄された赤ちゃんのウンチを食べ始めたのです。これが1番ショッキングでした。あれには驚きました。
それとやはり民族紛争ですね。スリランカは1948年に独立します。総人口の7割がシンハラ人、それ以外がほとんどタミル人となります。シンハラ人は仏教徒が多く、タミル人はヒンドゥー教徒、ムスリム、キリスト教徒に分かれる。1956年の総選挙のとき、シンハラ・オンリーというスローガンを掲げ、公用語をシンハラ語だけにしようと主張するスリランカ自由党が圧勝します。これを境に、シンハラ人とタミル人との対立が顕在化していきます。1970年代には独立を求めて武装闘争を主張するタミル人の若者も現れます。
1983年夏、スリランカでの調査をはじめてちょうど1年が過ぎたころに、のちに「7月の暴動」と呼ばれるタミル人虐殺事件が勃発します。私はリアルタイムでこれを経験しました。たまたまワシントン大学のジェームズ・ブラウ(注10)のお宅でジョックとスリランカ北部のアヌラーダプーラで会っていたのですが、そこからフィールドへ妻と帰ろうとしていた前日に暴動が始まったのです。帰路では真っ黒に焼けただれた大型トラックが横転している光景などを見ました。
私はオートバイを持っていたので、村人に頼まれて、ライフル銃を運んだり火焔瓶を作るためのガソリンを入手したりするように依頼されました。私の調査村は、タミル人のヒンドゥー教徒が圧倒的に多いのですが、シンハラ人仏教徒、シンハラ人キリスト教徒、タミル人ムスリム、タミル人キリスト教徒など、異教徒、異民族の村に囲まれていることもあり、襲撃を恐れていたのです。村と外部を結ぶ橋は、大型車両が通れないように一部破壊され、見張りがたてられていました。ライフルは運びましたが、ガソリンは丁寧にことわりました。大家さんの奥さんの弟夫婦がコロンボの近くに住んでいて危険だということで、様子を見に行きました。まだ暴動が続いていた頃で、道路際のタミル人の家が放火され、煙が立ち上っていました。
少し落ち着いてからコロンボにも行きましたが、タミルの人たちが集住していた地区などはひどく破壊されていました。最初に来た時に滞在していたペッター地区のお店もひどい状態でした。
たまたま私は調査中にシンハラ人たちのタミル人虐殺という事件に遭遇しましたが、民族紛争が激化するのは1984年以後です。1983年当時は、暴動後でもスリランカの北部に自由に行くことができました。

素手で魚をとる女性たち

院生
 フィールド調査では先生が体験されたように、現地でのトラブルに巻き込まれるなど、生命の危機すら感じる事もあると思います。それでもフィールドへ行き、自分の身体を使って調査する意義とは何でしょうか?

 

参与観察とは生活すること
田中
 そうですね、フィールドワークは、図書館や公文書館で行う文献研究や実験室で行う実験とは異なります。それは文字通りフィールドで行われるわけです。しかし、その意味するところはさまざまです。屋外で資料を収集する研究はすべてフィールドワークと言えますが、文化人類学のフィールドワークは、生活がキーワードです。祭りを観たり、長老にインタビューしたりするためにフィールドで数日間過ごすのは、「生活」とは言えません。長期での滞在が必要ですが、当然その分トラブルも増える。しかし、そうしたトラブルこそフィールドワークを豊かなものにするし、研究者を鍛えていくことになります。
たとえば、私の場合、最初友好的でいろいろ手伝ってくれていた村人が、実は村のなかでは好かれていなくて、私がほかの村人たちと仲良くなっていくにつれて嫉妬しはじめる。嫉妬だけでなく、調査に支障が出るようないやがらせを働くようになりました。かれとのトラブルを通じて、村の人間関係がよく見えてきましたし、信頼関係も強まりました。逆に、村人とトラブルが解決できないと、フィールドを去らなければならない、ということも起こるでしょう。
もちろん、民族紛争に巻き込まれて命を落としたり、国外追放されたりする人類学者も出てくる。そうしたリスクがあるにしても、なお生活をすることから得られることはたくさんあります。20代半ばに2年近く、見知らぬ世界で暮らすことをプログラム化している学問は人類学しかありません。これこそ人類学のフィールドワークを、ほかのフィールド・サイエンスから分ける決定的な要素だと思っています。参与観察ということばは、たんに祭りに参加するとか、一緒に歌を歌うとかではなく、生活することを意味することだと思ってください。
フィールドワークは、危険も多いと思いますが、人間が身体的存在であること、また社会的存在、つまり他者との関わりの中で生まれてくるような存在であることを知るのもまたフィールドワークの意義だと思います。前者は図書館に通って文献を相手にしているだけではわからないことだと思います。頭脳労働が中心であるはずの知的実践の最前線で、人類学者は自分たちが身体的存在であることを思い知らされることになるのです。これは素晴らしいことではないでしょうか。また、後者は実験室で動物や物を相手にしていたり、短期のフィールドワークだけではなかなかわからないことでしょう。

院生
 スリランカではほかに何かありましたか?

 

「星降る夜」
田中
 そうですね。7月の暴動の後、村の漁師たちを追って西海岸から東北海岸に行くことになりました。漁師たちは、10月から4月の半年を西海岸に位置する村で、残りの半年を東北海岸のキャンプ地で過ごすという生活をしています。理由はモンスーンのために海が荒れ、それぞれ半年しか漁ができなくなるからです。1984年になると、武装闘争も激化し、北部や東北部に行くことが困難になりますが、1983年はまだ問題ありませんでした。
漁師たちと一緒にトラックに乗って、ずっと東北に進んでいくと、まわりになにもない砂浜の海岸に着きます。初日は小屋も立てず、網を砂の上に敷いて寝ました。「星降る夜」ということばがぴったりの夜でした。
朝は6時ころから地引網を引き始め、とれたての魚で朝食。ご飯と魚カレーです。最高の日々でした。ほとんど男たちだけでしたが、女性や子供も数人いて、彼女たちはコロンボに出荷する干し魚を作ります。
村では6時半ころにインド洋に沈む夕日を毎日見て過ごしていましたが、なにせ人が多い。これにたいし東海岸はまったくなにもない世界でした。海と砂浜、パルミラヤシ(注11)の木だけ。この場所が2004年12月26日に津波に襲われてしまいます。東海岸は漁期ではなかったので、調査地の村人から犠牲者が出なかったのが不幸中の幸いでした(注12)。近くには村人たちが出稼ぎに行っていた塩田があるのですが、そこでも数日すごしました。体中から水分が抜けていく、そんな世界です。

地曳網漁
院生
 有意義な調査を行うためにフィールドワークに出発する前にすべき事、フィールドで心掛けるべき事はありますか?

 

「何でも見てやろう、してやろう」の精神
田中
調査出発前には先行研究の文献レビューをしたりテーマについて議論したりして調査の目的を明確にすることが重要です。私が勧めたいのは、フィールドに1冊か2冊、自身の研究テーマに関係している本をもっていくことです。これと同じ本を書くなら、どんな資料が必要なのか、どんな質問を誰にしたらいいのかを、本から推測して実践に移すこと。同じデータを集めれば同じような本が書けるはずですよね。それに、その本の問題点もはっきりしますから、フィールドでの勉強には最適だと思います。私は、留学する前から持っていたBrenda Beckの民族誌(注13)1冊とジョックがくれたPaul Alexanderの新刊のドラフト(注14)をもっていきました。
調査に行く前に、南アジア社会における初潮儀礼や婚姻について議論したことがあるのですが、同じようなことを言っていると言ってAnthony GoodがLSEのゼミで発表した原稿Female Bridegroomをジョニーがスリランカに送ってきました(注15)。こういうきわめて真摯な支援は、見習わなければといつも思っています。
なにをするかははっきりしておくことにこしたことはありませんが、一旦フィールドに入ったら、自身の研究課題以外のことがらについても関心を持つほうがいいと思いますね。なにかを理解することも大事ですが、フィールドにどんな人たちが住んでいるのか、なにをして生活しているのか、フィールドがどんな場所なのか、といった質問にきちんと答えることができなければなりません。また、もっとおもしろいテーマが見つかれば、調査前の勉強にこだわらずに、テーマを変えるような臨機応変の態度も必要です。しかし、同時にあたらしいテーマについても理論的な背景を知っておく必要があります。おもしろいからという理由だけで、論文を書くことはできません。選択する際に、見通しと言うか、議論を組み立てることのできる知識が必要です。この意味でも、MScのようにオールラウンドに人類学の知識を学ばせるコースは重要です。
私はフィールドワークの基本は、まずすでに述べたように、一緒に住むあるいは生活を共にする、つぎにあらゆることをみる/いろんなものに参加する機会を得る、「何でも見てやろう、してやろう」の精神です、最後にいろんな質問をしてデータをとること、だと思っています。実態がどうか、ということももちろん大事ですが、質問を通じてすくなくとも人びとがどう考えているのかが分かるはずです。ゼミでも、「直接聞いてみましたか。どんなふうに答えていましたか」と学生たちに尋ねます。この質問に答えることがまず要求されます。
具体的に言いますと、私の場合、祭りや儀礼があれば、それを見に行く。それにプラスして地引網などの漁について調べる。個別訪問をして、世帯構成や親せき関係を調べる。600世帯を超える大きな村なので、この個別訪問は妻にも手伝ってもらいました。個別訪問は、もちろんデータ収集のためという目的もありますが、なによりも村人たちひとりひとりと親しくなれたのが良かったです。だれがどんなところに住んでいるのかが具体的にわかりますし、村人たちも私たちと話ができて親しみを持つことができたと思います。ただプライベートな生活に踏み込むのですから、調査し始めてすぐに個別訪問というのは警戒されて、よくないかもしれません。個別訪問から、あたらしい調査項目なども発見できると思いますから、遅すぎるのも困ります。フィールドに入って数カ月してからというのが一番いいでしょうね。当時の私の調査は宗教、経済、家族・親族の3つが主でした。政治は弱かったですね。
とはいえ、1年もフィールドにいると、そこでの生活が当たり前になり、特に宗教儀礼など特定のテーマだけにこだわっていると、やることがなくなってきてしまいます。ではなにをしたらいいのか。

 

人びとの生活に関心をもつこと

田中
かれらは1年間何をしていると思いますか?答えはお仕事です。1年を通して人びとは儀礼よりもむしろ経済活動に多くの時間を割いています。食べるために当然と言えば当然です。労働中心の人間生活をしっかり調べるとなると、やはり経済に関する細かい資料が必要になってきます。日常的実践が強調されていますが、そのコアとなるのは経済活動のことです。そう考えると、やることがなくなってくるといった消極的な理由だけでなく、より積極的な理由として、もっと経済活動に注目すべきだと思っています。基本は、フィールドではフィールドでみんながやっていることをやれ、ということでしょう。そうなると、毎日お祭りがあるわけではありませんから、仕事・労働を無視するわけにはいきません。
フィールドに暮らす人びとの生活に関心をもって、なんでも調べてみることが大事です。それが結果的にフィールド全体の理解にも、自分のテーマを総合的に理解する事にも繋がりますからね。
ただ、ことわっておきたいのは、いままで話していたのは、あくまで特定の場所に住み込んで行う長期のフィールドワークについてです。同じ場所でも短期ですと、毎回テーマを決めて調査を行う、ということになるでしょう。また場所と結びついている人というより、そのような結びつきが弱い人を相手にする場合も違うでしょう。〇〇村の人たちを調査しよう、というのと、国際結婚をした人を調査しようというのでは、場所と人との関係が違いますよね。

院生
フィールド調査の期間は先生自身で決められたのですか。博士論文執筆計画として考えると、どれくらいの期間が妥当でしょうか?

田中
私は奨学金の事務手続きの関係で、1年半で調査を切り上げました。1年では足りないと思いましたね。私は修士の2年間は文献研究のみに専念して、博士課程で最長2年のフィールドワーク、帰ってきてから3年以内に博士論文を書き上げるというのが理想だと思います。ただ、現実は修士で調査をする人が大半ですし、そのほうがいい修論が書ける確率も高い。研究への動機も強くなるでしょう。学術振興会特別研究員(注16)に採択される可能性も高い。博士課程に進学しても、論文を書いたり、学会で発表したりと、いろんなことをしなければなりません。博論を書くまで、公刊されたものなどひとつもない、といった、当時のロンドン大の院生たちと、お二人の置かれている状況とはかなり違います。
外国に比べて、日本人の学生のほうが、教員の科研プロジェクトに参加したりして、何度もフィールドに足を運び、フィールドとのつきあいも長いと思います。そんな状況に対し「科研で論文はカケン」と毒づいたこともありますが、いまはそれもしようがないかな、と思います。

 

霊媒


網を縫う老人

院生
スリランカを引き上げるのはいつですか?

 

「区切り」をつける

田中
1983年11月にフィールドから直接ロンドンに向かいました。ロンドン大学から奨学金がもらえることになったので急遽戻ることになったのです。すでに17カ月もいたわけですから調査期間としては十分です。11月15日までに復学の手続きをしないとこれから2年間の奨学金がもらえないわけですから、期日に遅れるわけにはいかない。妻はすこし遅れてそのまま日本に帰国し、年末になってからロンドンで合流することになりました。私がフィールドを離れた後、過労のためか、彼女はマラリアにかかって大変な目にあいました。

院生
突然帰ることになったのですね?

田中
フィールドワークも論文執筆もそうですが、終わりのない作業ですから、どこかで区切りをつけないといけない。
日本からスリランカに向かったのは6月のことだったし、むこうは年中暑かったので冬物の服はなにももっていなかった。スリランカからロンドンに戻るときも、あわただしく現地を離れたので、これから行く先の気温のことまで考えが及びませんでした。気楽なもんです。日本に比べれば暖かいロンドンとはいえ11月半ばはやはり寒い。スリランカを出たときの恰好で空港からそのままLSEに着いて、パリ―やブロック(Maurice Bloch)に挨拶に行きました。
モーリスは私の寒そうな格好を見かねて、彼の娘による手作りのマフラー(虹色のド派手なモノでした)を私に貸してくれた。かれは舌鋒鋭く敵も多いですが、私にはいつも優しかったです。
フィールドから帰ってしばらく、以前と同じ寮で妻と暮らしていましたが、この寮はパディントン駅には5分もかからず、またハイドパークにも近いという、大変便利なところにありました。パディントンはヒースロー空港に到着してロンドンの中心街に向かうときに到着する玄関口になるところで、大小のホテルがたくさんあります。当時はキングス・クロス周辺が「浄化」されてこのあたりに娼婦たちが移ってきていました。この寮ももとはホテルでしたが、スパイ事件の舞台になって売却されることになったのでロンドン大学が購入して大学寮にしたわけです。
この寮は2年間しか住むことができない決まりでした。このため引越し先に大学関係の寮を探していたのですが、なかなかみつからない。幸い、モーリスが家族と一緒に日本に行くことになり、その間猫の世話をすることを条件に、自宅を使ってもいいと言ってくれました。その頃かれは、私の妻から日本語を毎週習っていたのです。そういうわけで1984年の夏はかれの家で優雅に暮らしました。そうそう、キッチンには「あいうえお」の文字が書かれていました。お皿を洗いながらひらがなを覚えていたそうです。彼の家で印象的だったのは、本がほとんどなかったことです。かれの趣味はブック・バインディングなのでその手の(革表紙の)本はいくつかありましたけど。そもそも本棚らしいものもなかった。目立ったのは、かれの叔父にあたるモースの著作集3巻くらい。
そうこうしているうちにLSEの夫婦寮が空くことが分かって、引越ししました。今度は住宅街にある寮でしたが、近くにホロウェイ監獄があり、拷問されていたのか、ときどき叫び声が聞こえてきました。寮の管理者はMajorie Fergusonという人でした。ほとんど話しませんでしたが、ずっとあとに帰国してから彼女が女性雑誌についての本Forever Feminine: Women’s Magazines and the Cult of Femininityを書いていることに気づきました。
第3回へ続く

 

注1:彼女について詳しくは以下を参照。http://www.kaneesha.com/Meenakshi-Sheshadri
注2:1934-90、当時東京外大アジア・アフリカ言語文化研究所准教授、主な調査地はバングラデシュ。
注3:1952- 現東大教授、南インドの近代史、『インドから』、『グローバル・ヒストリーの挑戦』(ともに山川出版社)など著書多数。
注4:R.L. Stirrat. 主な著書:1998 On the Beach: Fishermen Fisherwives and Fishtraders in Post Colonia Lanka South Asia Books.
注5:Edmund Ronald Leach, 1910-1989. 主な著書:1954 Political Systems of Highland Burma Boston: Beacon Press.(関本照夫訳 1995『高地ビルマの政治体系』弘文堂.)スリランカについては、1961 Pul Eliya : A Village in Ceylon : A Study of Land Tenure and Kinship Cambridge: Cambridge University Press.
注6:1960 Aspects of caste in South India Ceylon and North-West Pakistan Cambridge: Cambridge University Press.
注7:Stanley J. Tambiah 1929- , ハーヴァード大学名誉教授、タイとスリランカが主たる調査地、翻訳書に『呪術・科学・宗教 : 人類学における「普遍」と「相対」』思文閣出版、1996がある。
注8:University of Peradeniya. 1921年にセイロン大学として創立されたスリランカでもっとも古い大学。
注9:田中典子1993『消されたポットゥ スリランカ少数民族の女たち』農山漁村文化協会.
注10:James Brow, テキサス大学オースティン校教授。主な著書:1996 Demons and Development: The Struggle for Community in a Sri Lankan Village Tucson: University of Arizona Press.
注11:オウギヤシともよばれる。学名Borassus flabellifer。ヤシ科パルミラヤシ属に属する常緑高木で、高さ30メートル以上にもなる。乾燥地帯でもよく生育する。酒の材料や工芸品の素材や建材として利用される。
注12:ただし、東海岸に移住した調査村出身の人が数名犠牲になった。
注13:1972 Peasant Society of Konku:Study of Right and Left Subcastes in South India Vancouver: University of British Columbia Press.
注14:1982 Sri Lankan Fishermen:Rural Capitalism and Peasant Society Canberra: ANU.
注15:この発表原稿はのちに同名の書物となる(Anthony Good 1991The Female Bridegroom : A Comparative Study of Life-crisis Rituals in South India and Sri Lanka Oxford: Clarendon.
注16:若手研究者に対して研究に専念する機会を与え、研究者の養成・確保を図る制度。詳しくは以下を参照。
http://www.jsps.go.jp/j-pd/index.html