第3回目は、「オセアニアへ」というタイトルでお届けします。第2回目のインタビューでは「土方のフィールドワーク」というタイトルで、学部生のときに、水生生物を中心に実習や実験をされていたことをお話いただきました。今回は、その後大学院に進学し、サル学に出会い、医学系の出版社に就職され、さらにその後オセアニアに出会って博士課程に進学するという経緯についてお話していただきました。
*第3回目のインタビュー記事は、書きおこし原稿(14,789文字)をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。
(インタビュー第2回へ)
「タニシツアー」から「サル学」へ
院生:
理学部ってなると絞られますよね?
風間:
そうだね。当時、博士課程を設置している理学部というだけでかなり限定されて、なおかつ(細胞レベルではなく)動物の個体群や環境を研究対象として扱う大学となると、ほんの数校しかなかった。
さっき言ったように、所属した動物生態学研究室は、基本的に水系のエコシステムを扱っていた。俺は、フィールドワークのグループにいたのだけど。ベントスってわかる?底生生物(注1)というのだけど、栗原先生のところで助教授だった菊地永祐先生が、底生生物の専門家だった。ずいぶん前に引退なさったけど。当時、助手の先生が2人いて、ひとりは微生物グループの鹿野先生、もうひとりがフィールドワーク・グループの鈴木先生だった。
研究室でおもしろかったのが、一緒にタニシツアーに行っていた鈴木先生が、市民運動に参加しているような人だったこと。まだそれほど有機農業が一般的じゃなかった頃、既に有機農業に参加をしていた。今だったら当り前のように、例えば、都市住民による「棚田オーナー制度」などもあるけど。当時、有機栽培の水田を年間契約で借りて、豊作でも不作でも、一定額で米を買い取るグループに参加して、土日になるとそういう田畑へ行って草むしりして、自分で育てた米を食べるとか。だから、タニシの実験用に農学部から借りて田植えした実験用水田でも、最後に収穫して食べたりした。
有機農業にこだわりのある鈴木先生は、自分のお子さんに、ジャンクフードを食べさせないという話だった。農薬をすごく気にしていて、農学部の実験農場に泊まり込みで作業したことがあるのだけど、実は鈴木先生の本当の目的は、農薬散布状況の確認だったみたいだ。泊まり込みの翌朝早く、小さいラジコンヘリで農薬を散布する情報を入手していて、その様子が見たかったらしい。僕らは泊まり込みで作業したのだけど、鈴木先生の興味はむしろ農薬散布のほうだったようで、熱心に写真を撮っていた。
あと原発問題。タニシツアーのときも、タニシ取り作業の合間に、遠くまで柏崎原発の視察に行っていたと思う。市民団体の仲間でガイガーカウンター買ったとか。あちこちに行って放射線を測定していたらしい。健康診断で使う胸部レ線写真を撮る自動車の後方で、当たり前だけど、数値が高いといっていた。そういえば、福島の原発事故の直後、当時俺が住んでいたつくば市南部は、ホット・スポット(部分的に放射線が高い特異な場所)とかいって、一時期話題になっていた。つくばの公務員住宅敷地の隅々まで、住民(主に理系研究者)が放射線量の測定をしていた。そのとき、鈴木先生の話を思い出した。
無農薬系の食材を使うレストランって、今では普通だけど、1980年代半ばには、まださほど普及していなかったと思う。そういう店によく連れて行かれた。確か、俺が沖縄から帰ってきた直後、かなり日に焼けていたとき、ある店に行った。東南アジアからの留学生に間違えられて、店の人に「日本語上手ね」とほめられた(笑)。
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川村俊蔵さんとの出会い
風間:
元々、生物学の研究者を志望していて、博士課程までいくつもりで大学に入ったのだけど。ちょうどバブル経済の頃、企業の給料も相当よくなっていて、学生は就職先が引く手あまただった。企業からの資料が連日山のように家に届いていた。当時も理学部と言えば、大学院進学が当たり前だったけど、バブル期は特殊で、就職した人のほうが多いような風潮だったと思う。なかには、医学部を卒業したのに、銀行や証券会社に勤める人もいたようだし。
ここでも、俺は世の流れに流されたわけだ。大型哺乳類を対象にした動物生態学や行動学の研究者の道も、少しは考えたけれど。でもとりあえず、都内の出版社に就職しようと決めた。都内で映画、音楽、美術などの刺激がある生活のほうがいいと思った。それで、都内での就活もしやすいし、実家に戻った。修士課程は、上智大の生命科学研究所(当時)にあった大学院大学に行くことにした。他大学の大学院にも受かっていたけど、タニシやイトミミズではなく、短期間でも、人間に近い動物を研究したいと考えた。大型哺乳類を少し研究して、2年間で就職すればいいやと。
本当は、動物園で類人猿の観察をするつもりだったけど、またしても(動物生態学研究室での微生物研究のときのように)、そうは行かなかった。実質的に指導してくれた、当時講師の乗越先生の指導教員に当たる、京大を退官したばかりの大御所が、研究室に出入りしていた。京大霊長類学の川村俊蔵(注3)という先生……。立花隆の『サル学の現在』(注2)、この辺に多分出てると思うんだけど(本を見ながら)。霊長研で、菅原さんも良くご存知のはず。俺は、動物園でチンパンジーを観察しようと思っていた。すでに動物園でチンパンジーの行動研究をしていた、心理学出身の先輩がその研究室にはいたし。
川村俊蔵先生は、マカク(注4)の研究を続けていた方だった。京大理学部や農学部の学生が、最初にニホンザルから始めて、途中でチンパンジーとか人間に移ってしまうと、愚痴を言っておられた。やっぱり人間に興味のある人にとっては、そのほうが面白いから仕方ないと思うけど。最初のステップだけマカクで、その後ニホンザルの研究を続けたり、あるいは東南アジアのマカクにまで展開する院生は少ないと不満気に言っておられた。
川村先生ご自身は、ニホンザルに近縁のサルを研究したいと、タイワンザルに目をつけていた。伊豆大島にタイワンザルの帰化群があって、その研究を始めるという。俺が入る直前、博士課程まで進学した先輩がいて、タイワンザルを見に、台湾まで調査で行ったことがあった。しかし、家庭の事情などもあって、研究者にならずに、理系の某出版社に就職してしまった。その時にたまたま、フィールドワーク経験のある俺が入学した……そこで、水田や干潟から離れたものの、都内の動物園ではなく、伊豆大島へ島流しになってしまった(笑)
京大を退官した直後の川村俊蔵先生は、伊豆大島の泉津集落にある「椿トンネル」付近に空き家を借りていた。この最初の空き家は、木製のトイレ小屋が別棟で建っていて風情があった。川村先生が、年季の入った五右衛門風呂を修理するのを手伝ったり……秋には、壁の隙間に巣を作っていたスズメバチと闘ったり、いくつも面白い話があった。
でも、結局、その借家を出ることになって、新たに空き家を自分で借りなければならなくなった。大島町役場の泉津出張所に行って、都区部からUターンしてきた若い職員の方に、とても親身に協力して頂いて、ようやく二番目の家を貸してもらった。集落の中心近くに古い空き家を見つけたのだけど、既に風呂もトイレも壊した後だった。そこでまず風呂場を作ってもらった。役場の方にお世話になって、風呂用のボイラーとか、湯船とか、中古品を探して借りてきた。大学で研究費を工面してもらって、安いながらも地元の若い人に謝金を払って、家の外に小屋を建てて風呂場をしつらえてもらった。
残る問題は、トイレ。ようやく借りた家の隣に別の空き家があって、そのコンクリート製の離れにある水洗トイレを借りることにした。前の家の木製小屋のトイレよりも立派だったけど、しばらく使っていなかったので、保健所の人に来てもらって水質検査をして、正式に使えるようにした。
地元の方の協力もあって、空き家とトイレを借りて、風呂まで作ってもらい、生活できるようにする手続きを修士1年の時にひとりでやった。その経験は、後の海外での住み込み調査をするのに、ほんの少しは役立ったと思う。
家に住めるようになってから、1カ月半くらいか、川村俊蔵先生と寝食を共にする生活をした。川村先生が料理を作って下さったり(笑)。その時、川村先生は、伊谷純一郎先生(注5)に手紙を書いておられた日もあった。川村先生さんとはよく晩酌した。学部教授の栗原先生は、近寄り難くて雲の上の人という印象だったんだけど、川村先生は、とても身近に接して下さったのでいたく感動した覚えがある。たまに、大きな寝言で夜中に起こされたけど(笑)
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んで、その頃は1人で山道を歩きまわり、サル見つけたら追跡していた。集落近くの山中、ヤマイモを探すためか人間が結構入り込んでいて、小さな道が枝分かれしていた。林床でいきなりヤマイモを掘った穴にはまったり、サルを追いかけて林のなかで迷ったり。スダジイの極相林で、林道脇の崖から転げ落ちたこともあったね。幸い怪我はしなかったけど、ほんとに死ぬかと思った。
でも、面白かったのは、俺が転げ落ちた大きな音に、サルたちが大パニックになって大騒ぎしていたこと。転がり落ちてようやく途中で止まって、俺は斜面に這いつくばっていた。そのとき騒いでいたサルたちが鎮まって、何が起こったのか心配そうに見にきて、ほんの数メートルの距離まで向こうから近寄ってきた。いつもは、俺を見つけると低い警戒声を発して、樹上高いところを枝渡りして逃げていくだけなのに。
あと、山の中でサルの死骸を見つけたことがあった。日の傾いた暗い林道を歩いていて、何か柔らかい変な物を踏んだ瞬間、そのぐにゅっとした感触にぎょっとして、後ろに跳び退いて後ずさりして、よく見たらサルの死骸だった。それで、どうしようかと・・・・・・。その頃、伊豆大島のサルは「純粋に」タイワンザルなのか、川村先生も気にしていた。一応、形態や行動を見る限り、タイワンザルに間違いないという話だったのだけど。
というのも、当時の大島公園では、タイワンザルのほか、アカゲザルとかカニクイザルだったか、何種かのマカクが一緒に飼育されていて、交雑が起こっていた。そこで、野生化した個体群の元になった、昔、最初に逃げ出した数頭のサルが、本当にタイワンザルだったのかどうか、割と重要な問題だと思われていた。
ある環境の下で進化してきた生物種の行動を研究するとき、その対象が、交雑した個体群だと具合が悪い。進化論と分類学的な種(species)概念に基礎づけられた、生物学的研究の前提に引っかかってしまうという問題。川村先生の発案で、大型の科研費を取って、サルを何頭か捕獲して遺伝的な検証をするという話も出ていたほど(そのプランは、実現しなかったけど)。だから、サルの死骸は、貴重なサンプルになりえたわけ。
見つけたとき林のなかで俺は、カメラと野帳とペン、小さなビニール袋くらいしか持ち合わせていなかった。それで、いったん家に戻って、ゴミ用の大きな黒いビニール袋を取ってきて、現場に戻ることにした。ホンダの原付で慌てて往復して、黒いビニール袋にサルの死骸を入れて、暗い道をようやく家まで持ち帰った。その後、借家の庭の隅に死骸を埋めた。今考えると、かなり怪しい行動・・・・・・(笑)。いずれ、白骨化した頃に掘り返して、種の同定に役立つような骨格標本を作ろうと思っていた。だけど、そのまますっかり忘れてしまった。
そんなおもしろい経験をしつつ、季節ごとのサルの遊動や植物群落を調べた。スダジイの胸高直径を計測したり。水系の動物生態学の土方フィールドワークではなくて、今度は山の中を歩くフィールドワークをしていた。
サルは人付けも餌付けされていなかったし、警戒声を発してすぐ逃げてしまった。川村先生は、餌付けするのがいいと言っていた。大島から戻ったとき、実家近くの市場で安いサツマイモやダイズを買って、伊豆大島に送ったりした。地元の人は、餌付けしてサルが増えて猿害がでたらどうするんだと警戒していた。俺は、餌付けには疑問を持っていたけど。しかし結局、餌付けまでには至らなかった……タイワンリスという帰化動物がいて、だいたいそいつらが食べちゃうんだよ。サルもイモに近づいて来たけど、かなり警戒が強くて、結局のところ(幸か不幸か)餌付けできなかった。
ほとんど行動観察できずに、群れの後ろを追いかけていくような日々だった。地味に食痕や足跡を記録したり、糞を集めたり。それでどんな植物を食べているのか。どういうルートで遊動しているのかを地図上にプロットしたり。当時、縄文人の糞石(coprolite)の分析をしていた友人がいたので、ついでに、サルの糞の成分を分析してもらったこともある。
本当は修論書きながら、都内で映画とか美術とかに浸りたいと思っていたんだけど。
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院生:
全然、当初の目的果たせてないですよね?
風間:
まったく達成されないまま、山にこもってサルの糞を拾って(笑)。おもしろかったけどね。野生化したクジャクとかキョンに遭遇したりして、いったいどの地域の森にいるのかわからなくなるような・・・・・・。三原山の砂漠には、野生化したヤギもいた。暗い湿った森林では、モリアオガエルの卵塊がぶら下がっていたし。
あと、夏の終わりの林道で、アブラゼミが雨のように降ってきたこともあった。蝉時雨といえば鳴声のことだけど、寿命を迎えたセミが、本当に何匹も樹上からポトポトと落ちてきた。伊豆大島の森を歩いていると、なんというか、生命の過剰性を感じることがあった。社会生物学だと、餌の獲得や生存競争、繁殖戦略や包括的適応度ばかりが強調されるけど。森を歩いていると、寡少な資源獲得の競争というよりも、過剰な生命が溢れてこぼれ出て、変転していくように感じられた。産卵しにきたヒキガエルが、コンクリートで固められて金網で囲われた貯水池に入れず、その手前でカラスに食われて骨が散乱していたり、セミが木の枝に止まったまま、菌類に覆われていたり。生と死の過剰か。バタイユの蕩尽論ではないけど。
1人だから気楽は気楽だった。たまに、地元の方々や駐在さんと酒を飲んだりして、楽しいこともわりとあった。でも、寒い冬とかね、少し侘しかったな。夏はね、やっぱり山の中を歩き回るから水筒とか持っていけばよかったんだけど、持っていかなかったから脱水症状みたいになって。わりとしんどかった。
1人だから気楽は気楽だった。たまに、地元の方々や駐在さんと酒を飲んだりして、楽しいこともわりとあった。でも、寒い冬とかね、少し侘しかったな。夏はね、やっぱり山の中を歩き回るから水筒とか持っていけばよかったんだけど、持っていかなかったから脱水症状みたいになって。わりとしんどかった。
院生:
なんで持って行かなかったんですか?
風間:
山といっても集落から遠くもないし。原付で走って、歩き回った後、集落に下りてきて、そこでグッと飲む炭酸飲料、喉に染み渡って、なんか生きている感じがすごくした。夜になると、商店の前の自販機まで少し歩いてビールを買った。そうすると、道すがらの街灯に虫が集まってきていて、大型のノコギリクワガタやミヤマクワガタが、結構たくさん道路に落ちていた。子どもの頃、浅間神社の縁日や、花やしきとか、デパートの屋上で買ったような立派なやつ。それを家に持ち帰った。フルシチョフとかケネディとか、スターリンとかトロツキーとか、ゴルバチョフとかレーガンとか、クワガタに名前を付けて戦わせて、夜の暇潰しにしていた。
伊豆大島には、ニューアカの本などを持っていって雨の日に読んだ。山口昌男や中沢新一の新書を大島で読んだ記憶がある。大島から実家に戻ると、時間がないなかで就活をした。バブル期だったし、主に理系の出版社の内定をいくつか取ることができて、その中でも小さい出版社を就職先に選んだ。医学系の単行本を作っている老舗。
就職する前の2月か3月、いわゆる卒業旅行には、壁の崩壊前のベルリンに行こうと思っていた。東ベルリンは飛び地でおもしろいところだと、なにかの雑誌に書いてあった。ドイツにいた帰国子女の友人の話しでも、ベルリンは、東ドイツの人たちに見せつけるために、ネオンをやたらと派手にしたり、人口を保つために年配者の福祉を充実させたり。自称アーティストみたいな若者が集っていたりとか。
当時、ブリクサのいたノイバウテン、デア・プラン、ドーリスとか、ドイツのパンクやオルタナティブ系ロックを聴いていて。おもしろいバンドが結構あった。オーストラリアからロンドン経由で来たニック・ケイブも拠点にしていたし。ベルリンに行って、ニック・ケイブのバッド・シーズや、ディー・ハウト、クライム・アンド・ザ・シティ・ソリューションとか、気に入ったバンドのライブでも観ようかと思ったんだけど。その前に壁が崩壊して、街の魅力が失せてしまった。
次に行きたかったのが、ソ連の中央アジア地域。中学校の頃、短波ラジオでタシケントやバクーの放送を聞いて、エキゾティックな印象を強くもっていたからかな。あと、スターリン時代、東アジアの人たちが入植させられたという本を読んで、どんなところか興味をもった。でも、冬は飛行機が飛ぶかどうかわからない。社会主義国の政治的混乱もあったから断念した。
オセアニアとの出会い
最終的に、適当に世界地図を見て決めたのが、南太平洋のトンガという国。かなり適当に選んだトンガに行ったとき、地元の方の家に泊めさせてもらったり、観光客もいない離島に行って、浜辺で子どものウミヘビを捕まえたりした。その時、やっぱりフィールドワーカーの習性か、ちゃんと野帳とペンを持っていて、話しを聞きながら記録をとっていた。タパ(樹皮布)を作る道具のスケッチをしたり、トンガで生まれて初めて、夜、村の男性たちとカヴァ(コショウ科植物[Piper methysticum]の乾燥根から作った飲料)を飲んだり。「これって、人類学者っぽいな」と。結構おもしろいなと。
よく考えてみると、既に人類学者の書いた本を少しは読んでいた。帰国後、オセアニアに興味をもって、毎週末のように神田神保町の古本屋街に行って、オセアニアに関連する本を手当たりしだいに買っていた。手当たりしだいに読んでみると、人類学者の書いてる本が当然、何冊も入っている。さらにおもしろくなってきて、オセアニアに関係なく人類学の本を買うようになった。この辺(本棚)にあるラドクリフ・ブラウンとか、マリノフスキーの古典……「通過儀礼」や「高地ビルマ」、文化生態学などの弘文堂の翻訳シリーズとか、当時、古本屋で買ったものだと思う。
人類学はおもしろいと思ったけど、俺は理学部で生態学専攻だったし、当初、まさか本気でその道に進もうとは考えてなかった。ただ、祖父江孝男(注6)の入門書に、日本では、理系出身の人類学者がわりと多いと書かれていた。文化人類学の専門教育課程のある大学は、1990年代まで日本では、ほんの数えるほどしかなかった。だから、さまざまな分野出身の人類学者がいて、特に京都辺りだと理系出身者が多いと書かれていた。それを読んで、俺にピッタリかもしれない、とまじめに思った(笑)
あと、医学系出版社で本や雑誌を作っていると、同世代の知人が執筆者になっていることに気づいた。理学部や医学部の人たちが研究者のタマゴになっていて、生物学や基礎医学の論文や、単行本の分担執筆をしていたり。担当した本の関係で、動物発生学の研究室に電話して、当時博士課程にいた同期の田村君と話をしたこともあった。そうこうしているうちに、編集者よりも著者の側がよいのではないかと。俺も人類学の大学院に戻ろうかという気分になってきた。
とりあえず3年間の編集キャリアがあれば、万一うまくいかなくても、出版業界に何とか戻ることが可能かもしれないし。3年間で自己資金を貯めて大学院に入ったら、経済的に何とかなるだろうと思って、人類学の大学院に入りなおす決断をした。
当時、博士課程の大学院(とくに人類学)は、まだそれほど多くなかった。博士課程は、定員の制限が厳しかったし、外部(当該大学出身者以外)からは、あまり受け入れていなかったように思う。そこで見つけたのが、(学部も修士もなくて)博士課程だけある民博だった。当時、大学院の受験倍率が6倍か7倍くらいだった。
トンガでの経験後、わりと読書もしていたので、受験する1年ほど前には、オセアニア島嶼部で人類学の研究をしようと思っていた。生態学を専攻していた身として、島環境には、進化論を含めてなじみがあったし。民博には、何人かオセアニアの人類学者がいた。そのなかで、広い視野でエスノグラフィを書いておられたのが、須藤健一先生(神戸大学名誉教授・国立民族学博物館元館長)だった。
何人も著名なオセアニア研究者がおられたけれど、例えば、秋道先生(秋道智彌、注7)は漁撈の研究、石森先生(石森秀三、注8)は宗教や観光に専門化していたから、いきなりお話を伺うのは躊躇があった。須藤先生には、広範視点からの話を聞けるかと思って、まず連絡してみることにした。
須藤さんとの出会いと調査地としてのキリバス
院生:
いきなり連絡したんですか?
風間:
うん。当時はメールも普及してなかったし、いきなり手紙を書いて、手紙が着いた頃を見計らって、会社帰りに電話をかけて、休日にアポをとって大阪に行った。専門出版社で働いていたから、見ず知らずの研究者に会うことに、さほど抵抗感はなかったと思う。それで、須藤先生の研究室を訪問して自己紹介したら、「どこを研究したいのか」と尋ねられて。まずキリバスを出したかな、あとは、東ミクロネシア辺りと言ったと思う。「少なくとも日本ではあまり研究者もいないし、おもしろいんじゃないか」と須藤先生はおっしゃって、関連する本を貸して下さり、雑誌論文のコピーや抜刷りなども頂いた。
とても丁寧に対応してくださって……。訳の分からない奴から、いきなり手紙と電話が来て、初めて会ったのに、貴重な本を貸してくれて、コピーを下さって。その後、本を借りたら返しに行かなきゃならない。次に返しに行った時、ご自宅にまで泊めてくださった。2回ほど泊まらせて頂いたかな(笑)
手巻き寿司をご家族と一緒にごちそうになったり、奥様にもとてもお世話になった。その時小学生だったご子息は、しばらく後(高校生くらい?)に会ったら、俺よりずっと背が高くなっていた。その頃、ロック・バンドをやってたようだけど、最初に会ったときは、「ドラえもん」を読んでた小学生だった(笑)
やっぱり大変だったのが、受験の面接だった。俺は出版社の社員だったし、ばらばらな経歴を考えると……もし俺が面接官だったら、変なやつだと思って、積極的に採りたいと思わなかったかもしれない。面接では、落語の三題噺のように、干潟や水田など水系の動物生態学、そして、新しい島環境に入った帰化動物のサルの食性と遊動、伊豆大島という島環境、そしてオセアニアのサンゴ島。その辺りの話を、干潟の生産性の高さとか、システム・エコロジーの用語などを使って、サーリンズなど、無理やりオセアニアの人類学に結びつけて説明したような記憶がある。その後、調査地としてキリバス南部の島を選んだのにも、生態学的な発想が最初にあった。
博士課程で調査したキリバス南部のサンゴ礁というのは、非常に脆弱な島環境で、少なくとも陸上の植物層は、かなり貧弱。中部太平洋のサンゴ島では、沿岸の水産資源も思ったほど豊かではないと思う。沖縄の海の方がよっぽど豊富な魚種が見られそうだし、スクーバ・ダイビングにも向いているはず。人々が回遊魚を捕るには、小さなカヌーで危険な外洋に出ないといけないし、高い技術が必要になる。実際に島に行ってみると、現在の人々は、思ったほど漁に行っていない。
キリバス南部は、中部太平洋でも降雨量が非常に寡少な島々。東経180度よりやや西側に、北からマーシャル諸島、キリバス、南にツヴァルと、南北にサンゴ島が連なっていて、キリバスの真ん中あたりを赤道が通っている。マーシャルのマジュロ辺りから徐々に降雨量が下がって、赤道の少し南でグッと減って、その底のあたりがキリバス南部。ここらの島々では、干ばつがしばしば起こる。博士課程の長期調査では、そんな島に行ったんだ。かなり厳しい環境の島をあえて選んだ。自然の中で生きる人間を生態学的な発想でとらえた時、自然条件の厳しい生活を見てみたいと思ったんだよね。
人間の生存領域エクメーネ(注9)と非生存領域アネクメーネ(注10)の境界線あたり、人間の生存領域ギリギリにほぼ位置するサンゴ島の世界。キリバスの島々より東の方は、かつてほぼ無人島だった(今は、政府が移住政策をとっている)。ある島には、人間の住んでいた痕跡は残っていたけど、初めてヨーロッパ人が来た時、人はいなかったというし。干ばつ時に死に絶えたか、水不足に耐え切れずにどこかへ逃げ去ったのか。
そういえば、ジャーナリストの本多勝一の書いた『極限の三民族』というルポルタージュがあった。この極限とは、高山、極地、砂漠の3つ。だけど第四の極限があって、それが寡雨のサンゴ礁の島だと、俺は勝手に言っている。そういう過酷なサンゴ島の生活を見たいという物好きな発想だった。こんな生態学的な理由で、調査地として選んだのがキリバス南部の島だった。それが、後にとても不幸なつらい経験になろうとは・・・・・・(笑[力無く])。
(第4回へ続く)
注1:底生生物の総称。水域に生息する生物のなかでも、水底の底質の表面やその中に生息する。水生生物は、その生活型によってネクトン(遊泳生物)、プランクトン(浮遊生物)、およびベントスの3つに分類されている。
注2:1991年に平凡社から刊行されたのち、1996年に文春文庫から上下巻で刊行されている。
注3:(1927-2003)。霊長類学者。京都大学名誉教授。ニホンザル社会における「末子優位の法則」のほか「イモ洗い行動」についての報告などがある(菅原先生インタビュー第2回目にも辛島のニホンザルについてふれていますので、そちらも参照ください)。一般向けの図書として昭和29年から日本動物記(全4巻、光文社)が刊行されたが、そのうち第4巻「奈良公園のシカ」を執筆。この動物記は、当時の新進気鋭の若手動物生態学者が執筆をした。編者は今西錦司。第1巻は「都井岬のウマ(今西錦司)」「飼いウサギ(河合雅雄)」第2巻「高崎山のサル(伊谷純一郎)」第3巻「幸島のサル(伊谷純一郎)」第4巻「奈良公園のシカ(川村俊蔵)」「動物園のサル(徳田喜三郎)」
注4:オナガザル科マカク属に含まれる。ニホンザルもマカク属に含まれる。アフリカ大陸北部が起源と考えられている。
注5:伊谷純一郎(1926-2001)。人類学者、霊長類学者。『高崎山のサル』(1954年)で毎日出版文化賞受賞。1984年に人類学のノーベル賞と称されるトーマス・ハックスリー賞を日本人として初めて受賞。日本最初のアフリカ地域研究の機関として、京都大学にアフリカ地域研究センター(現アフリカ地域研究資料センター)を設立。『伊谷純一郎著作集(全6巻)』が平凡社から刊行されている。
注6:(1926-2012)文化人類学者。国立民族学博物館名誉教授。主な調査対象は、アラスカ・エスキモー。『県民性』(中公新書、1971年)がベストセラーとなる。
注7:(1946-)総合地球環境学研究所/国立民族学博物館名誉教授。専門は、生態人類学、海洋民族学、民族生物学。最近の著書は『海に生きる 海人の民族学』(東京大学出版会、2013年)
注8:(1945-)国立民族学博物館名誉教授。専門は、観光文明学・文化開発論。主な著書『危機とコスモロジー ミクロネシアの神々と人間』(福武書店、1985年)。第2回(1986年)大平正芳記念賞受賞
注9:人間が居住している地域を指す地理学の用語。
注10:人間が居住できない、あるいは居住することが非常に困難な地域。氷雪気候や砂漠気候などのほか、放射能汚染が拡大して居住不可能になった地域もそのひとつ。
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