田中第5回ミクロ人類学

第5回目は「ミクロ人類学」というタイトルでお届けします。国立民族学博物館から京都大学人文学研究所にうつられたあと、田中先生はさまざまな研究プロジェクトに取り組まれていきます。今回は、先生が編集したなかでももっとも引用されているといわれる『ミクロ人類学』を中心にこれまでの研究プロジェクトについてお話していただきました。
*このインタビュー記事は、書きおこし原稿をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。

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民博時代

院生
それで、民博で助手の仕事は何をしていたんですか?

田中
はい、これまで民博に就職して出て行った人たちのなかでは二番目です。就職は南アジアのポストだから、僕の直接の上司はインド学の永ノ尾先生とチベット言語学の長野先生でした。

院生
民博にいた期間はものすごく短かったんですよね。

田中
8月って実質夏休みだから仕事はないわけ。委員会の委員になって仕事をするというのが基本ですが、委員になれという話もないわけです。8、9月は誰もいないし、仕事もない。86年の10月とか87年の4月からは、委員になって仕事を少ししました。『月刊みんぱく』の仕事とか、研究報告の編集委員などをしていた。就任直後の8月は暑いし、当時ロンドンから帰って来たばかりで、今だったら全然変じゃないけどシャツとかだってズボンの外に出していた。廊下もよく裸足で歩いていた。白衣は禁じられていたみたいだけど、裸足は禁じられていなかった。当時民博は工事していて、わたしは助手とは思われないで、現場で働いている人が廊下をウロウロしていると思われていたようです。
86年に民博に就職したけど、学生はいなかった。だから給料はもらっていたけど、気分的にはまだ学生生活を続けていたような環境だった。当時は、助手なんて仕事がたくさんあったわけじゃないしね。民博では南アジア関係の研究会と田辺さんの「文化的プラクティスとイデオロギー」の研究会に参加していた。田辺さんの研究会には、今の著名な人類学者がいっぱい集まっていた。内堀さんもそうだし、船曳(建夫)さんとか、関本(照夫)さん、若い人だと、松田素二さんもいたし、あれは凄く刺激になった。

院生
民博にいた期間はものすごく短かったんですよね京大に移るのはいつでしたか?

田中
88年の6月。だから民博にいたのは1年10ヶ月。そのうち4ヶ月はインドに行っていたから、実質1年半くらい。8月に就職して二ヶ月程は何もしてない。だから本来民博でやらなくてはいけないことをやってない。例えば、研究所のゼミで発表するとか、蒐集のための買い出しとかね。当時はみんな百万円もの札束を体に巻いてモノを買いに行っていた。

院生
そういうこともみんな民博の先生の仕事だったんですか。

田中
はい。民博でよかったのは、いろんな人と会えたことです・僕なんか長い間留学していたし、出身は宗教学だったので、横のつながりがあまりなかった。東京や関西からも離れていたので他の大学と交わることも少ない。留学すると日本の人類学とは縁がきれてしまう。そういうわけで民博は、いろんな人と出会う場所としてはとてもよかった。それが後々まで役に立っています。京大で研究会をたちあげても、民博つながりの人に来てもらったりしていた。たとえば最初に始めた暴力の研究会では、田辺(繁治)さんや大塚(和夫)さんに来てもらっていた。

京大人文研へ

院生
88年に京大の人文研に移るわけですが、文化人類学の大学院教育とかはまだ先ですよね。93年頃ですか?それまでは人文研で共同研究が中心だったのでしょうか?

田中
民博も共同研究会が中心だった。人文研にはそのころ人類学に近かったのは、谷(泰)さんと、もうひとり助手で音楽をやっている藤田(隆則)さんがいた。谷さんはそのころ「民族誌記述」の研究会をしていた。のちに『文化を読む』っていう本になる研究会です。それが最初に参加した人文研の共同研究でした。

院生
暴力の研究会は転任してすぐに立ち上げたんですか?

田中
ちょっとしてからだと思います。当時、助教授(今の准教授)は別に研究会する必要はないだけど、谷さんが一年休みたいという希望を出してきたので、じゃあ何かやりましょうかということで「儀礼的暴力の研究」を始めた。それが、あとに『暴力の文化人類学』(注1)という論文集にまとまる研究会です。スリランカもインドも暴力に充ち溢れていた。

『暴力の文化人類学』

ミクロ人類学

院生
つぎに先生が編集された本のなかでも、よく引用されているという「ミクロ人類学」(注2)とエイジェント論についてお聞きしたいと思います。

田中
 ミクロ人類学で注目されたのは2点あります。ひとつはおっしゃる通りエイジェントあるいはエイジェンシー論、もう一つは基本テーゼである「全体化の欲望に抵抗すべし」についてです。まず後者について話したいと思います。私の留学時代の経験と密接に関係していますので、話を留学時代に戻して説明します。
いつもは人類学や南アジア関係の本がたくさんそろっているSOAS(The School of Oriental and African Studies)の図書館を使っていましたが、ここは午後8時に閉まるので、たまに、大学本部のあるセネート・ハウスの図書館にも行きました。セネート・ハウスのいいところは机にふるめかしいライトがついていて手元が明るいところです。そこでHistory of Religionsを読んでいたときのことです。ハッと村でおきていたことがわかった。天啓ですね。現地でのデータと文献で書かれていたことがらが結びついた。ヒンドゥー社会が一瞬にしてまるごとわかった気がした。こういう感覚は本来フィールドで経験するのではないかと思いますけど、それは単純すぎると思います。フィールドで現地の雰囲気などを肌で感じているから、書かれている儀礼や習慣がどのようなものかがわかるようになった。それは、フィールドに行ったからこそ経験できたことだと思う。しかし、体験しさえすれば分かる、見えてくるというものではない。同時に本に書かれていたことが引き金にもなっている。

『ミクロ人類学の実践』
 

院生
当時はどんなことを考えていたのですか。

田中
 スリランカに行く前から、文献研究を通じてヒンドゥー社会を総合的に理解するキーワードが浄不浄ではなく力(シャクティ)だということは明らかでした。しかし、他方でその力が万物に遍在するとみなすだけでは静態的な見方になってしまう。その力はどうやって生産され流通し、消費されるのか。そのメカニズムは何かということが問わなければならない。こんなことを調査に行く前は考えていたわけです。もうひとつは大伝統と小伝統、エリートのバラモン宗教と低カーストの民衆宗教といった対立をどのように止揚できるのか、といったことが解決すべき問題として残されていた(すくなくともそのような問いかけが当時は有効でした)。
フィールドではまず力に注目したわけですが、そこでアビシェーカ(灌頂)儀礼に出会うことになります。これはホーマ(護摩)を通じて力を生みだし、あたらしい神像(まだ石ころなわけです)に力を吹き込むという儀礼でした。アビシェーカは、複雑な儀礼でバラモンでないとできません。バラモンによる呪文が必須です。これはバラモンによる宗教儀礼の典型と言えます。またホーマというのは英語でfire sacrificeと訳されるように、炎に供物をくべて破壊する供犠です。アビシェーカについては、Writing Up Seminarで最初に発表しました。また『民族學研究』(現『文化人類学』)のデビュー論文もこの儀礼についてでした。
さて、他方で民衆宗教には動物を屠る供犠がありました。法律で禁じられていたので写真を撮ることはできませんでした。菜食のバラモンは近づけない供犠です。これだけなら供犠がバラモンと民衆の宗教実践を結びつける儀礼です、ということになるわけですが、もうひとつ大事な民衆的な宗教実践がある。それが憑依です。憑依を無視して民衆宗教を論じることはできません。供犠と憑依はどう関係しているのか。当時はここまで詰めていなかったと思いますが、なにかが抜けていたのです。
その空白を、History of Religionsに収められていたA World of Sacrificeと言う論文が埋めてくれた。埋めただけでなく、オセロゲームのように一挙に白地を黒地に反転させるような強烈なインスピレーションを与えてくれたのです。憑依自体が供犠の体験なのだということが分かったのです。力も浄不浄も大事だが、これを生産・流通・統御するのは供犠(動物供犠、ホーマ、憑依など)という実践だったのです。ヒンドゥー教の本質は供犠であり、社会は供犠組織なのだということが実感として理解できました。すると、いくつか関係する事例を思い出した。たとえば、動物を供犠するときに水をかけるのですが、そのとき体をブルブルッと震わせる。犬なんかがよくやっていますよね。それを表すタミル語が憑依を表す言葉と同じだった。これが決定的でした。
この後はいままで読んできた本を読み返したりして、この実感を自身のデータや既刊の民族誌で確認していく。いままでとまた違う視点から読みはじめるわけです。フィールドノートを読みながら、民族誌を読む、そこからまたフィールドノートを読む・・・という往復作業に専念することになります。

院生
いわゆるブレイクスルーというものでしょうか?人類学者の方はよく使われることばという印象がありますが、私はいまいちブレイクスルーが何を意味するのかきちんと理解していないのですが。

田中
 たぶん各々異なる意味でブレイクスルーということばを使っている可能性はありますね。いままでうまくいかなかった調査がある経験や言葉のやり取りを通じてうまく事が運ぶようになるとか、何らかの偶然でいままで分からなかったことが分かるとか、いろいろあると思います。私の場合は、フィールドでではなく図書館でしたからあくまでも知的理解の上でのブレイクスルーということになるかな。だれにでも起こることではないと思います。だけど、人類学を志すなら知的に理解する喜びやその感覚を一度は経験できたらいいですね。その意味で28歳の時に、こういう経験ができて幸せだったと思います。私の場合は、たんにわかった!というだけでなく、それがヒンドゥー社会をまるごと理解=所有した、という感情に襲われた。当時5億人以上いたヒンドゥー教徒たちの世界が一挙に手中にできたわけです。
しかし、同時にそれを崩さなくてはいけない、それがもっと大事なことなのだ、という高揚感も味わいました。

写真 SOAS図書館(左手前)、Senate House(正面)
写真 白い建物全体がSenate houseで、図書館はその一部です。
写真 Senate House Library(屋内)
 

院生
どうしてそのように思われたのですか。何かきっかけなどがあったのでしょうか?

田中
 80年にLSEに留学して、理論(学説史)の講義を受けました。1学期はブロック、2学期はジェルAlfred Gellでしたが、一番印象に残っていたのはブロックのニーダムRodney Needham批判です。エヴァンズ=プリチャードらオックスフォードを拠点とする人類学者は、象徴(あるいは象徴二元論)を人々の思考や行動を左右するきわめて強固なものとみなすという大きな過ちを犯した、という議論です。わたしが留学するころの日本の人類学会の主流は、まだまだ象徴分析が中心だった。人類学者は老いも若きも象徴分析や語彙分析を通じて異文化の二元論的世界を明らかにするのが使命だと思っていた。それが異文化理解だと思っていたわけです。
ところが80年代、私の学生時代に学説史を担当していたモーリス・ブロックは、シンボルやコスモロジーとして儀礼を読み解くニーダムの象徴人類学を批判したわけです。彼は、そこに作用するのはイデオロギーであると主張していた。
まあ、今思うとモーリスも、男/女、浄/不浄といった二元論的な世界観から逃れていたわけではないですが、それを等置せずに権力関係とみなし、どう社会関係の正当化に結びついているかを、主として儀礼分析から明らかにしようとしていました。

院生
つまり、ブロックのニーダム批判が頭に残っていたから、ブレイクスルーの経験をすぐに批判しようとした、というわけですか。

田中
 はい、ミクロ人類学の言葉を使えば、「社会全体がわかる」という全体化totalizationは他人の世界を超越的な視点から全てわかってしまうという快楽に等しい。つまり「全体化の欲望に抵抗すべし」とミクロ人類学で述べているのは、この超越的な自己満足を否定しろ、ということです。超越性は、他者との関わりを切断することで成立する。これではやはりほんとのところ人びとの生の世界をとらえそこなうことになる。

院生
つぎにエイジェンシーについてお尋ねしたいのですが。

田中
 そこに行きつくためにはもう少し時間がかかりました。1980年に留学して最初にお世話になったのが当時SOASに留学して博論執筆の仕上げにかかっていた田辺繁治先生でした。黒田さん(院生)の先生です。1986年にわたしが民博に就職し、先の述べた田辺さんがすでに始めていた研究会に参加します。その成果は『人類学の認識論的冒険』に結実します。
この研究会のキーワードは二つ。一つはアルチュセールによるイデオロギー概念、もう一つはブルデュの実践概念でした。この本の中で今村仁司さんはアルチュセールを讃えブルデュを批判しているのですが、どういう理由か、田辺(繁治)先生をはじめ、当時若手の研究者はブルデュのハビトゥスや実践論へと向かっていきました。でも、私は、今村さんによる批判もさることながら、実践をする人に目を向ける必要があると考えていた。実践をする人はいったいどんな人間なんでしょうか。『ミクロ人類学の実践』で展開しているエイジェント論というのはそのあたりから出発しています。それに加えて、トロント大学の本屋でバトラーの『権力の心的な生』(注3)を偶然手にしたのも大きかった。『ジェンダー・トラブル』(注4)しかしらなかった私にはたいへんうれしい偶然でした。このあたりのことは『人類学の誘惑』に詳しく書いています。
エイジェントとは、「行為者」とか「行為体」と訳されるけど、「代理する個人」という意味にとることもできる。英語ではdeputyです。英英辞典を読めば行為者だけでなく、こういう意味も出てくる。私はむしろ、こちらの方に注目した。エイジェントの訳として「代理主体」を提案していますが、反応はないですね。結局、実践という概念だと匿名性が強くて、実践者の顔が見えてこない。私は、ブルデュがいうような「匿名的な実践者」ではなく、アルチュセールのいうような「呼びかけによって振り向く存在」をまず考えたかった。
アルチュセールやフーコーのいう「従属する主体」のアポーリア、つまり拒否・対抗する主体を想定できないというアポーリアを克服するのは、別のところから提唱される実践などからではなく、同じ土俵から批判すべきであると思っていたわけです。呼びかけそのものになにか問題はないか、そこを批判することでしか真のアルチュセール批判にはならないと思っていました。
わたしの読書歴は、1980年代からアルチュセール、フーコー、バトラーと続いていく。バトラー以後、つまり世紀が変わって『ミクロ人類学の実践』公刊後は、誘惑という概念に出会ってからは、例外もありますがほぼわが道をいく、ですね。あえて言えば、代理や供犠、犠牲などの理論化を目指すうえでレヴィナスを無視できないと思っています。

インタビュー第6回につづく

 

注1:田中雅一(編)1998.京都大学学術出版会.
注2:田中雅一・松田素二(編)2006.世界思想社.
注3:ジュディス・バトラー 2012.『権力の心的な生ー主体化=服従化に関する諸理論』月曜社.
注4:ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱』1999.青土社.