田中第7回インド研究・在日米軍基地の研究

第7回目は「インド研究・在日米軍基地の研究」というタイトルでお届けします。今回は、田中先生が就職されたあとにとりくまれることになったインドでの研究の経緯、そしてその後、在日米軍基地の研究へと展開する過程についてお話いただきました。
*このインタビュー記事は、書きおこし原稿をもとに、院生とホームページ担当者が編集しました。事実関係については先生に確認していただきましたが、タイトル、構成などは担当者の責任のもとに編集しています。

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インド研究

院生
スリランカ以外にもいろんなところでフィールドワークをされていますが、民博に就職してからインドでの調査にとりくまれはじめるんですね。

田中
民博の長野(泰彦)先生(注1)に言われたのは、スリランカの後はインドをやってほしいということでした。

院生
そうだったんですか。私はてっきり、スリランカが内戦で大変だから、南インドにフィールドを変えたのかと思っていました。

田中
それもあるけど、シンハラやっていた人たちは内戦に関係なく続けている。長野さんがインド関係の科研(注2)をはじめていたこともあるし、民博ではインドの専門家を育てたかったのだと思います。この科研がなければインドを本格的にやっていたかは疑問です。そういう意味では長野さんに感謝している。86年の8月に民博に就職してから、最初の一年くらいは(日本に)ずっといたかな。87年の冬12月〜翌年3月の4カ月、インドでの調査地を探すために現地に行った。そこでチダンバラム(南インド、タミル・ナードゥ州の寺町)に決めるわけです。

院生
4カ月って結構長いですよね。南インドに限らず、いろんなところを周ったんですか?

田中
ほんとインド1周したよね。北西インドのラージャスターンではちょうどサティー(いわゆる寡婦の殉死問題)が実施されたばかりだった。デリーにも長い間いました。デリー、ムンバイ、コルカタなどの大都市。南インドだとケーララとタミル各地。北インドだとガヤ、ブッダガヤ。ワラナーシーは行ってないけども、ウダイプール、ジャイプールなどは回りました。

院生
では、その時は儀礼研究を続けようと思っていたわけではないのですか?

田中
思っていたよ。科研のテーマと関わることをしなくてはならないというのもあったけど、もう一つ、それとは別に個人研究のためにインドで何か新しいことをやらなきゃならないと思っていた。もっと長期的な調査地を決めたかった。その時、実は工場をやりたいと思っていた。それで、タミル・ナードゥ州のコインバトールに長く滞在していた。アジアのマンチェスターと言われた産業地帯です。そこの綿布工場を見て回った。セメント工場も訪ねました。でも、結局お寺になった。ジョニー(パリー)はワラナーシーでの調査を終えた後、北インドの産業地帯で調査をするんですよね。わたしのほうが発想は早かったけど、結局やらなかった。

院生
最終的にはチダンバラムに決められたんですね。

田中
 うん、工場って、組合とか、組織的にきちっとしているからなかなか自由に入れるものではないという印象を受けた。チダンバラムは、ご存知のようにいいところだし、お寺はその前から、LSEのクリス・フラーがやっていたから抵抗はなかった。お寺をやるのなら、当然彼の調査地のマドゥライ以外でやろうということになる。チダンバラムは、〔ほかのお寺と〕ちょっと違うと思って4か月のうち、最後の1、2週間ぐらいはチダンバラムで過ごしました。インド各地を訪ねる前は、タンジャーヴールのタミル大学のゲストハウスに長期滞在していました。でもタンジャーヴールって、今世界遺産になっている有名なブリハディーシュヴァラ寺院があるのだけど、建物だけが立派で、活動がないんだよね。今は世界遺産とか観光とかの視点で見れば、それはそれで面白くなるのかもしれないけれど、当時はもうほとんど遺跡に近い感じでした。タミル大学はよかったけど、このお寺ではあんまり意味ないかな、やれることはないなと思ったんです。
インドは、民博のときにはじめて88年以降10年くらい続ける訳です。96、97年まで毎年のようにインドに行きました。就職もしていたし、子どももいたので長期の調査はできないとわかっていた。とりあえず、チダンバラムでは司祭たちのことを中心に調査をするのと、寺院の訴訟の歴史をきちんとやろうと思った。訴訟関係はチェンナイの高等裁判所に行く必要がある。わたしが訪れると、寺院訴訟の調査でやってきた研究者はお前で4人目だと言われました。まずArjun Appadurai(注3)の妻Carol Breckenridge(注4)、フラー(注5)、フラーの友人のAnthony Good(エジンバラ大学教授、注6)です。チダンバラムは調査を始めた1988年当時から、幼児婚とかスキャンダルになっていて、あまりみんな喋りたがらなかったです。政府との軋轢もあった。スリランカでは漁民カーストを中心に村落生活をくまなく調査する、という感じでしたが、チダンバラムでは、バラモン司祭の行う家庭祭祀とお寺での儀礼や祭りが中心になりました。

チダンバラムのナタラージャ寺院(北門塔をのぞむ)(撮影:飯塚真弓)

同寺院の東門塔(撮影:飯塚真弓)

寺院の内部で儀礼を行う司祭たち(撮影:飯塚真弓)

院生
現在、京都大学ではインド関係の研究プロジェクトが組織されています。先生もまた研究グループ(注7)の代表になっていますよね。スリランカとインドには毎年コンスタントに行かれているように思うのですが、80~90年代に比べて現代の南アジア社会はいかがですか?

田中
もちろん、大きく変わりました。スリランカの場合、スーパーマーケットがあちこちにできていることでしょうか。車道もよくなりました。とはいえ、30年近く内戦で苦しんできたこともあり、わたしの村あたりから北は、あまり風景が変わっていません。投資がなされていないということです。村人たちは少数派のタミルですから、どんどん海外に出て行ってしまった。いまロンドンには村出身の若者が1000人近くいて、テスコなどのスーパーで働いている。私たちが住んでいた家の隣にいた5歳くらいの女の子も、いまはロンドンに住んでいてお子さんが二人います。私の現在の仕事のひとつは、かれらがどうやってロンドンまでたどり着き、どんな生活を送っているのかを明らかにすることです。私は覚えていなくても、かれらは私のことをよく知っていますから、その分、楽ですね。

院生
インドについてはどうですか。

田中
 そうですね。インドももちろん急速に発展しています。シンガポールにありそうなショッピングセンターができていたりする。道路事情もすごくよくなった。ただ、チダンバラムはそんなに変わっていないのではないですか?いまのインドについては飯塚さん(院生)のほうが詳しいと思います。ただ、忘れてはならないのは、インドがどれだけ発展しても、社会の底辺で苦しんでいる人がたくさんいることです。なぜインドを研究対象にしたのか、という問いへの答えはカースト制度に関心があるから、でした。残念ながらカースト制度の研究は私の中心的なテーマにはなりませんでした。理由は、スリランカでの調査地では、底辺に位置するカースト集団を把握するまでに至らなかったということです。漁民カーストの調査で精いっぱいだった。女性の地位については関心があり、論文も書きますが、それも虐げられている女性の状態を告発しているわけではありません。むしろ、自立している事例をあげてこれまでの南アジアの女性についてのイメージを相対化しようとしている。
1987年秋にインドに渡り、そこでサティー事件(注8)に出会う。これが大きかった。サティーについて論文を書き、当時のインドをめぐるジェンダー研究の最良の部分に触れることができました。留保制度の導入などで、女性の地位は上がっているかもしれませんが、暴力という観点から見る限り、楽観視できません。最近私は、デリーの女性開発センターを訪ねましたが、新聞報道を見る限り、女性への暴力は増えてきている。バスのなかやバス乗り場での暴力的な痴漢行為。名誉殺人。硫酸攻撃。まだまだあるでしょう。この数年間は名誉殺人をやっていますが、硫酸攻撃(acid attack, acid violence) も残酷な行為です。ある意味殺されるよりひどい。10代の女性の顔が焼けただれ、すぐに中和しないと酸が骨にまで浸みていきます。名誉殺人では、女性の性的な行為のせいで恥をかかされたと感じた両親や兄弟、あるいは夫が女性を殺してしまう、場合によっては相手の男性を殺す場合もある。こういう事例が北インドからパキスタン、ヨルダンなどに広く認められます。また欧米の南アジア系移民の間でも見られるという意味では、グローバル化している犯罪行為と言えるでしょう。そして、女性を虐待する第三世界というイメージの強化に一役買っています(注9)。

エビ養殖が村の風景を大きく変えていった

在日米軍基地

院生
インドでおよそ10年間やって、そのあと在日米軍の調査をはじめるのですか。

嘉手納基地に展示されているF15A Eagle

田中
 はい、わたしがやろうとしていたのは、基地と周辺社会との関係ではなく、基地そのものを調査したかった。軍隊そのものを知りたかった。基地の中の軍隊の生活とかを知りたいと思っていた。だけど、基地に入ること自体が難しいから調査は当然不可能になってくる。
なぜ米軍に関心を持ち始めたかっていうと、1990年代初めに民博の久保さん(注10)と、秘宝館の調査をし始めます。それで川崎の金山神社に行くんです。そこにもコレクションがありますからね。二回目は金山神社のお祭りの時でした。そこでたくさんの米軍の人たちに会ったのです。「ああ、こういうのも米兵はやってるんだ」ということに気付いた。それまでは、米兵というと、性犯罪とか女性達がいっぱい群がっているとか、スキャンダラスなイメージでしかなかったけど、普通に観光もしているわけなんですね。これはおもしろいなと思って調査し始めました。米兵が、観光も含めふつうにどんな生活をしているのかということに関心があったのです。調査はしにくいけど、すこしずつインタビューをして聞いていくということにした。
アメリカの基地のおもしろさは、場所性の問題と関連付けると2つあって、方法的にはフィールドワークから離れざるを得ない。基地には住めないからね。参与観察できない。でも基地そのものは非常に村的な世界なんだよね。その中で生活がほぼ充足できて、完結している。もっといえば、戦闘状態になったときでも外部に依存しなくてもやっていけるのを理想とする世界です。住居が外にあったとしても兵隊達は9.11のときみたいにさ。非常事態になったらみんな基地のなかに招集されちゃう。だから家族もいったいどこに自分の夫や息子が行ってるのかわからなくなる。すべて秘密なんです。海軍だったらそのまま横須賀からどこかに行っちゃっうかもしれないし、まだ基地内にいるかもしれないし、全然わからない。変な話だけど、住居が基地の外にあると、家族とも離れて基地内で「自給自足」になってしまいます。だから人類学者が昔から想定していた村の自給自足の生活よりももっと徹底しているともいえる。

岩国を拠点とする海兵隊航空隊のバッチ。
「すべてに備えて」というモットーが記載されている。

院生
ある意味かなり人工的ですけどね。かなり。

田中
もちろんそう。一方で、アメリカ軍基地は地球規模で展開しているから、自給自足とは全然言えないわけです。物理的に自足的にみえるけれども、他方でそうじゃない。これはおもしろいテーマだと思った。米軍基地の調査は96年からやりはじめて97年から研究助成を受けた。それはいろいろと勉強になって、今まで知らなかった世界が開けた。場所という問題とそうではないという問題でできていること。この米軍基地の研究を10年くらい続けます。

院生
具体的にはなにをされたのですか。

田中
 金山神社のお祭りで初めて出会ったということもありますから、まず米兵たちが日本の何を見ているのか、ということに関心をもちました。最初に座間の米陸軍基地に行って福利厚生関係の施設部で旅行の話を聞きます。資金が必要ですから「旅の文化研究所」の助成金を応募して採択されます。その後、科研などにも採択されて、調査は軌道に乗ります。
調査地はあえて一つに絞らず、マルチなフィールドワークを心がけてきましたが、それが良かったかどうかはこれから評価されるでしょう。佐世保では、国防総省が出している『星条旗新聞』の記者に取材されてトップでわたしの調査が報じられます(下記、写真)。まずは太平洋版に掲載。その後ヨーロッパ版にも掲載され、30人くらいメールでの反応がありました。これこそ、調査でのブレイクスルーでしょう。そのあとずっと調査がやりやすくなります。
沖縄ではいくつか印象に残る出会いがありました。
そのうちのひとつは、当時嘉手納基地で働いていたクリス・エイムズさんとの出会いです。かれは、東北で2年間英語の先生をして沖縄にやってきます。私のせいかどうかわかりませんが、二回目にお会いしたとき、かれは人類学を勉強するために、複数のアメリカの大学院に応募していました。かれの案内で広大な嘉手納基地を車で回るのですが、F15戦闘機が待機している格納庫のそばをゆっくり走りながら二人で話すことと言ったら、太田好信や冨山一郎の仕事についてだったりするわけです。なんかとてもシュールな世界が展開していると感じました。しかも基地内のかれのオフィスには吉本(隆明)の戦争論やストッキングの人類学の歴史についての本などが置いてある。クリスはその後ミシガン大学に進学し、そこで博士号をとります。テーマは沖縄の人と本土の人とアメリカ兵です。そうそう、かれに頼んでルービンの博士論文(注11)をコピーしてもらったこともありました。ルービンの博士論文は、サンフランシスコのSMを実践するゲイたちについてでした。なぜこんなものを?とクリスも驚いたことでしょう。かれには、その後もいろいろとお世話になっています。
基地に関しては、クリスのほかに、宮西香穂里さん(注12)が米兵と日本人女性の結婚を横須賀と沖縄で研究していますし、徐玉子さんが在韓米軍基地周辺ではたらくセックスワーカーについて調査を行っています。彼女たちの仕事の一部は『コンタクト・ゾーンの人文学』(注13)に収められています。わたしもここでは占領期における米兵相手の女性について論文を書いています。もともと軍隊の研究のために、基地にアプローチしたわけですが、結果的には基地がおかれている文脈、つまり現代日本――戦後日本を無視することはできなくなりました。占領期の日本、そしていまの沖縄社会の置かれている状況へと関心を移す必要を感じました。

PACIFIC STARS AND STRIPES(May 27, 1998)に掲載された記事

サンフランシスコ中心部の高層ビル群

院生
主要なフィールドはスリランカとインド・チダンバラム、そして日本ということになりますが、それ以外でどこか印象に残っているところはありますか。

田中
 そうですね。サンフランシスコは、いろいろと気になる場所です。ルービンが調査したのもサンフランシスコでした。パット・カリフィアの活動拠点もサンフランシスコだったと思います。彼女が批判している女神崇拝運動の指導者のひとりスターホークもサンフランシスコに暮らしている。また、モダン・プリミティヴの教祖でもあるムサファー(注14)もサンフランシスコが拠点でした。そういうわけでサンフランシスコは気になっていた。セックス研究の聖地のひとつがThe Institute for Advanced Studies in Human Sexologyです。ここを訪ねるのはもっとあとですが、合衆国のセックス・シーンで無視できない女性がここで博士号をとっている。アニー・スプリンクル(Annie Sprinkle)(注15)。彼女の本も翻訳がありますね。ある時たまたまホテルの近くの劇場でVagina Monologueを上演していた。頑張って電話予約をしました。近くの本屋さんにこの舞台のもとになった本が平積みで売られていた。これをマリオット・ホテルのバーで読み、それから劇を観ました。3人の女優のうち一人はスーパーモデルのナオミ・キャンベルでした。この本ものちに翻訳されますし、日本で上演もされたのではないでしょうか。新入生相手のポケットゼミでテクストとして使ったこともあります。
もう一つ重要な体験をお話しします。2001年9月11日に陸軍のスタッフとペンタゴンで会うことになっていました。クリスを通じてアレンジしてもらっていました。場所はペンタゴン、国防総省です。メールでのやりとりでこの日でOKでしたから、わたしは13日に帰国する予定でした。しかし、気になって当日の朝電話を入れたのです。軍隊は朝が早いですから、電話をしたのが7時半くらいだったと思います。すると、今日は忙しいから明日にしてくれと言われました。それで食堂に行って朝ご飯を食べていると、どやどやっ、とたくさんの人が食堂に入ってきて、テレビのスイッチを入れるではないですか。どうした?と思っていると、ツインタワーに飛行機が突っ込んで燃えている映像。そのあとほぼリアルタイムでペンタゴンにも飛行機が突っ込む映像が流れます。そういうわけで、キャンセルになって命拾いをしました。ただ、ワシントンDCはニューヨークと違って、わりと平静でした。帰国の飛行機はキャンセルになり、余った時間を議会図書館で過ごしたり、インド系の宗教施設を回ったりできましたから。ただ、ペンタゴンの最寄りの駅は閉鎖されていました。で、のびのびになっていた帰国でしたが、ようやくチケットもとれて帰ることになりました。10時半くらいの飛行機でしたが、4時間前にチェックインしなければならない、などと言われていたので、早起きして飛行場へ行ったわけです。ところがカウンターで予定の飛行機は飛ばないという。しかし、7時の飛行機なら席が空いていると言われました。7時までは1時間少ししかありません。4時間前にこなくてもいいやんか?と思いながらこの飛行機でワシントンを離れたのです。
9.11以後世界は変わりました。このためセキュリティも強化され、基地の調査も難しくなりましたね。2001年にすべてのビルがツインタワーになってもおかしくない状況が生まれた。2003年にはイラク進攻が始まり、今度はどの国もイラクになってもおかしくない状況が生じたと言えます。

インタビュー第8回へつづく

注1:チベット社会を専門とする言語学者。民族学博物館名誉教授。
注2:長野泰彦代表『ガンジス河流域の複合文化形成動因の比較研究 ーアーリア文化と土着文化の相互関係』(1987-89)
注3:ムンバイ出身の人類学者、主な著書(翻訳)に『さまよえる近代』や『グローバリゼーションと暴力』がある。
注4:1942–2009。歴史学者。主な編著にConsuming Modernity: Public Culture in a South Asian World (1995)がある。
注5:主な著書にThe Nayars Today(1976), Servant of the Goddess(1984), The Camphor Flames(1992)など多数。
注6:主な著書にWorship and the Ceremonial Economy of a Royal South Indian Temple(2004)がある。
注7:人間文化研究機構(NIHU)プログラム 現代インド地域研究(プログラム名をクリックするとウェブサイトにリンクします)。
注8:英語表記は widow-burning, あるいは widow self-immolation などが使われる。ここでとりあげられているのは、1987年にインド北西部でおこったサティーとよばれる寡婦焚死事件。結婚生活8ヶ月の新妻が、病死した夫の遺骸とともに積薪の火炎に包まれて灰となった。
注9:これに関連して2013年度より科学研究費プロジェクト『地中海から西・南アジア地域の人々に関わる「名誉に基づく暴力」の文化人類学的研究』を組織している。
注10:久保正敏民博教授、専門はコンピュータ人類学。
注11:Gayle Rubin, The Valley of the Kings: Leathermen in San Francisco, 1960– 1990 (1994)
注12:著書に『沖縄軍人妻の研究』(2013)がある。
注13:『コンタクト・ゾーンの人文学Problematique/問題系<第1巻>』(2011)
注14:田中雅一「変態する身体」山下晋司編『文化人類学入門』(2005)
注15:翻訳に『アニー・スプリンクルの愛のヴァイブレーション』(1996)がある。